ネットフリックスで『アンという名の少女』を観ています。NHKでの放映も始まりました。
アンを演じる女の子が原作のイメージ通り。ただし、エピソードがかなり追加され、往年の『赤毛のアン』ファンは意見が分かれているようです。
新完訳本の詳しい訳注により、文化的な背景がよくわかりました。
「農場を手伝う男の子を養子にしたかったのに、手違いで女の子が来た」という設定。
「手伝いに来ている男の子を養子にすれば手っ取り早いのに」とずっと思っていました。しかし、使用人はフランス系で二級市民扱い。カスバート家はスコットランド系で、養子にするなら同じルーツを持つ子供を望んだのでしょう。
しかし、見ず知らずの孤児を家に入れるのはリスクもあります。リンド夫人が脅すような「家に火をつける」「井戸に毒を入れる」ほど猟奇的なことはないにせよ、アンの姿が見えなくなると、マリラがすかさず銀食器がなくなっていないか確認していたシーンが心に残りました。
そして、アンが学校で孤立していくのを見るのもきつかった。
原作ではすんなり受け入れられていたのに、『アンという名の少女』では「孤児」と連発されます。
そして、女子教育の必要性を語る進歩的な奥様が、「アンはうちの子に悪影響を及ぼすから学校へ来させず、自宅学習せよ」とマリラに詰め寄ります。
時代は1900年初頭だし、島という閉鎖社会。よそ者に対する冷たさは容易に想像できます。
共同体には共同体のよさがあり、ギリス家が家事になれば村中が総出で消火に当たり、焼け出された一家も分散して村の家にお世話になります。家の修復も村人たちが協力します。カナダも日本も、一昔前は共同体は強い絆で結ばれ助け合って生きてきたのでしょう。
アンが共同体に受け入れられたのは、孤児院で得た消火知識が役だったこと。そして原作にもあるダイアナの妹の急病を子守の経験で救ったこと。
よそ者が入らなければ、村に新しい風はもたらされないのです。今の日本はどうでしょうか。コロナでリモートワークが脚光を浴び、地方への移住も話題になっていますが、そうすんなりとはいかないのでは。
さまざまな改変があっても、根底にあるテーマは不変です。
アンを孤児院に戻そうとするマリラに、マシューはなんとかアンを置いておけないかと言い出します。
「あの子が私たちに、何をしてくれるというの?(What good would she be to us?)」という辛辣なマリラ。マシュウの答えが胸を打ちます。
「私たちが、あの子に何かしてあげられるかも(We might be some good for her.)」
孤児のアンに愛情を注ぐことにより、マシューとマリラは孤独で味気ない日々を脱し、生きる喜びを得ることができたのです。
その象徴が3人で海辺に出かけるシーン。プリンス・エドワード島の自然に心奪われたアンはマシューとマリラにそのすばらしさを常に語ります。彼らにとっては見慣れた地であり、わざわざ海辺まで出かけることもなかったのに、アンがいることで新たな目で日常を見直したのです。
帯広・真鍋庭園にある洋館。カナダに行けなくても、北海道でプリンスエドワード島へと想像を広げることができます。