昨年のスペイン巡礼中も折に触れて読んでいたのが小池龍之介の『もう、怒らない』。
巡礼の日々、できるだけ感覚を研ぎ澄ませて歩きたいと思い「今この瞬間」に集中する方法を参考にしました。
歩いているときに、「今、右足が地面を離れた。今、右足が前へ進んでいる。今、地面に着いた感触があった」といった一挙手一投足に意識のセンサーを強く向ける。
バンコクで参加したヴィッパサナー瞑想でもウォーキング・メディテーションを習いました。
巡礼者の中にはイヤホンを付けて何かを聴きながら歩いている人もいましたが、もったいないことだと感じました。毎日、雑事に煩わされることなくひたすら巡礼路を進むだけの日々は、歩行に集中するまたとない機会なのに。
ただ、歩くことだけに集中しようとしても、凡人にはなかなかむずかしいことです。『もう怒らない』には、意識が逸れるたびに「あ、逸れてしまった」といち早く気づいて、足の感覚へと意識を引き戻すと書かれています。
それでも初めのうちは、意識はすぐまたどこかへ逃げていってしまうでしょう。それほどまでに、迷いの衝動エネルギーは私たちの心に根深く巣食っています。それでも、逸れる→戻す→逸れる→戻す……という反復横跳びのような地道な作業を繰り返すことで、集中するための基礎的な筋力が身についてきます。
7週間近く歩く日々を続けてきたので「集中するための筋力」もついたはずなのですが、帰国後は歩くことが少なくなりすっかり失われてしまいました。
この本を手に取ったのは『もう、怒らない』というタイトルに惹かれたからです。
高齢になって肉体が衰えること以上に私が恐れているのは、やたらと怒る老婆になることです。クレーマー老人が多いのは、高齢になると脳の抑制機能が失われてるからと言われますが、キレる高齢者ほどみっともないものはないと思います。
本格的な瞑想や座禅は敷居が高いのですが、日常の動作に集中することで意識のコントロール力を鍛えていきたいのです。
カナリア諸島出身の親切なオスピタレーロ、ナタニエルの巡礼宿を出発して古都サアグンへ向かった日。朝のうちは雨でしたが、昼になるにつれ青空が広がってきました。空の変化と道だけに集中できたすばらしい一日。
カミーノで怒りを感じることがなかったのは、温かく迎え入れてくれた地元の人やともに歩く巡礼者のおかげであると同時に、日々瞑想状態にあったからでしょう。
そして、日本では温泉にぴったりの瞑想法があります。
パウロ・コエーリョ『星の巡礼』に出てきた「水の実習」です。この本では主人公が巡礼路を進むにつれてさまざまな瞑想法が課題として出されます。
平らで水を吸収しない平面に水たまりをつくり、しばらく見つめる。そして、何かをしようと思ったり目的を持ったりしないで、水たまりで遊ぶ。まったく何の意味のない形を作ってみるなど。
これは露天風呂でやるのに最適です。冬の北海道の晴れた日なら最高。露天風呂の表面に映る空の形がさまざまに変化するのを眺めているうちに無我の境地に達します。
自動車なら30分で行ける距離を半日かけて歩いたり、露天風呂に延々と入るのはまったく生産性のないことですが、社会に何の貢献もできない高齢者になるのなら、せめて機嫌よくにこにこしている老婆になりたいものです。
『もう、怒らない』には瞑想の効用についてこう説明されています。
自分の中に生じては消え生じては消えてゆくさまざまな感覚を自覚する、すなわち身体感覚にぴったりと意識を寄り添わせることができるようになると、心が頭の中に引き込まれなくなり、無益な思考の回転が止まります。「ありのままの実感」と「頭の中だけの思考」は両立しないので、現実の実感に意識が留まるにつれ、欲や怒りの雑念に意識がさまようことが減少するのです。