翡翠輝子の招福日記

本業は女性誌の原稿書き(主に東洋占術と開運記事)。副業で外国人に日本語を教えています。フィンランドが大好き。

下関で金子みすゞと田中絹代を思う

JALの「どこかにマイル」でたまたま北九州に行くことになり、思い出に残る旅ができました。

 

一泊目の下関をすっかり気に入りました。本州の果てであり、九州はすぐそこ。韓国も身近です。海の幸もおいしいし、しばらく暮らしたいと思うほどでした。

 

そして、下関は日本の文学と映画史上に残る二人の女性のゆかりの地です。

 

金子みすゞ田中絹代

金子みすゞは「みんなちがってみんないい」というフレーズが有名な「わたしとことりとすずと」を書いた詩人。この詩は、日本語学校の作文の教材に時々使っていますし、学生に「私のクラスのポリシーだ」と説明することもあります。

 

下関の唐津には、金子みすゞの詩碑が点在しています。 

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「日の光」に登場する、おてんと様のお使いは4人。

「明るさを地にまく」「お花を咲かせる」「清いたましいの、のぼる戻り橋をかける」という3人。残りの1人は「影をつくる」。

 

光るあるところ必ず影があるし、影がないと光もない。

 

金子みすゞが生み出した珠玉の詩の数々と、26歳で自死を選んだ悲劇のコントラストを示しているかのようです。どんなに才能があっても、結婚相手を間違えると、とんでもないことになる。時代が違えば、やり直せる道もあっただろうに。

 

そして、田中絹代も下関出身です。

1903年生まれの金子みすゞに対し、田中絹代は6歳下の1909年生まれ。200本以上の映画に出演し、6本の映画も監督しています。

 

男女差別や家制度により押しつぶされてしまった金子みすゞと違い、田中絹代は「私は映画と結婚した」と男には目もくれず、好きなように人生を切り拓いていったように見えますが、田中絹代にも自殺を考えるほど落ち込んだ時期があったようです。

1949年に日米親善大使としてアメリカに渡った田中絹代。出発時は和服姿だったのに、帰国時はアフタヌーンドレスに毛皮のコート、緑のサングラス。詰めかけた報道陣への第一声は「ハロー」。アメリカかぶれの女優として猛烈なバッシングを受けることになりました。その後出演した映画では「老醜」とまで酷評されています。

 

その後、立ち直り、母親役や脇役で好演しました。

私が印象に残っっているのは小津安二郎監督の『彼岸花』の母親役。 娘の結婚で夫と娘の板挟みになりつつ、戦時中の思い出を語るシーンです。

親子4人で防空壕に逃げて、家族のつながりをしみじみと感じた。戦争中は大変だったけれど、あの頃は幸せだったかもしれないと回想します。最愛の娘が嫁ぐ前夜ですから、そんな風にも思うのでしょう。

 

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画面の手前に置かれている赤いヤカン。

彼岸花』は小津の最初のカラー作品です。赤の発色のよさからドイツのカラーフィルムを選んだ小津は、色彩調整のため赤いヤカンを小道具に使いました。

小津に薫陶されたフィンランドアキ・カウリスマキ監督は映画の道に入ることを「赤いヤカンを探すことにしました」と表現しています。

 


Aki Kaurismaki on Ozu

 

旅は出発する前も楽しいし、帰ってきてからも楽しい。下関を回想しながらも、次はどこへ行こうかと考えています。