昨年から本格的に終活を始め、NPO法人と正式に生前契約を結びました。公正証書も作り、いつ死んでも大丈夫という状態です。
延命処理は行わないように文書化して実印も押しています。医療崩壊が起こったら、若い人に治療の機会をゆずるつもりです。苦しいのは避けたいのでモルヒネぐらい投与してもらいたいのですが、緊急時にはそういうことも言ってられないかも。
これまでタブーとされていた命の選別について語られるようになりました。
自動車を製造を止めれば、交通事故で死ぬ年間100万人の命を救えたはずだ。でも僕らは歴史上決してその選択肢をとらなかった。
意識するかしないかに関わらず、我々はリスクと共存し、それを許容して生きてきたのだ。それなのに今、コロナによる恐怖と医療従事者による「ゼロリスク」の先導は世界中の経済を止め、生活を破壊し、人々は自らカゴの中に入ろうとしている。
高齢者医療の現場では、ゼロリスク神話による管理・支配によって高齢者を寝たきりにして人工的に栄養を与えていると書かれています。
パーキンソン病を患った私の母は、食物を咀嚼する筋肉の衰えで栄養が摂れなくなり、医師から胃ろうを勧められました。10年ほど前だったので胃ろうについて社会的な議論も起こっておらず、「このままだと栄養失調で死ぬ」と言われれば、患者の家族として受け入れるしかありませんでした。
しかしその後の10年の母を思うと、胃ろうを選択せずに自然死に至ったほうが彼女の意思に沿っていたのではないかと考えざるを得ません。口から食べなくなると、脳が衰え、最後の数年間はただベッドに横たわっているだけで、誰が面会に来たのかもわからない状態でした。
「高齢者は死ねというのか?」と言われると口を封じざるを得ませんでしたが、それはあくまでも平時のこと。
今の日本では60歳はまだ若いとされますが、姥捨て山の伝説では、山に送られる年齢は60歳。なし崩し的に高齢者福祉を拡大してきた日本ですが、コロナをきっかけに「これまでのような高齢者医療は続けられない」という流れになりそうです。
私の世代は、日本の高度経済成長期に子供時代を送り、社会人でバブル経済も体験しました。そろそろ引退を考える年になってコロナウイルスに直面しています。老後の身の処し方は社会に頼らず、各自で考えておくべきでしょう。