若い人はあまり活字を読まないでしょうから、出版業界は書き手も高齢化。老いをテーマにした本が目立ちます。酒井順子『老いを読む 老いを書く』もそうした一冊。
1966年生まれの酒井順子は私の6歳下。高齢者業界の若手といったところでしょうか。
中国や日本の古典を通した「老い」のあり方の考察を興味深く読みました。
儒教ではやたらと「孝」を強調します。配偶者や子供より、親を優先。中国では貧しい夫婦に子供がう生まれ、成長して食べ盛りになったら老母に食べさせる食料がなくなるかもしれないと子供を地中に埋めようとする夫の話が美談として伝えられています。穴を掘ったら黄金の斧が出てきたので子供を埋めずに済み、一家は豊かに暮らしたというオチです。そういえばシンガポールだったか、飢饉になって母乳を我が子ではなく姑に与える嫁の像を見たことがあります。これも義理の親に尽くす嫁を讃えているわけですが、今の日本では考えられない話です。
こうした話を尊いとするのは、年長者を敬うのがむずかしいから。放っておいたら、人は老人をないがしろにするのが当たり前。これからの世の中に役立つのは、衰えた高齢者ではなく若い人なのですから。
日本でも『枕草子』には、ことさら気にかけられないものとして、女親の老いが挙げられています。だったら官位のある男の年よりは気にかけられるのかというと、暇を持て余してどうでもいい和歌を詠んでよこすのは興ざめだとあります。定年退職後、用もないのに会社に顔を出して元管理職のようなものなんでしょう。
そして『徒然草』。「老人が若い人に交じって、自分の話はおもしろいだろう、役に立つだろうと話すのは見苦しい」という痛烈な一文が。引退した者が無理やり現役に交ろうとするのは今も昔も嫌われるのです。ネットや活字のなかった時代は老人の知恵に価値があったかもしれませんが、今は「老害だ」と切って捨てられます。
後書きには「令和のアラ還(酒井順子)はヒップホップの教室で踊っていい気になっているが、世が世なら、もうすぐ山に捨てられる年齢であるという事実が身に染みる」とあります。
そう、姥捨山に捨てられるのは60歳だったのです。
楢山節考で、おりん婆さんを70歳にしているのは、話にリアリテイを持たせるための改変です。
「世が世なら、山に捨てられていた年齢」と思うことで、ないがしろにされても気にせずに済みますし、将来のある若い人たちを優先してあげようという気になれます。

目指すは孤高の巡礼者。スペイン巡礼や熊野古道も、忙しい若者たちにとったら、呑気な高齢者の暇つぶしと思われているのかもしれません。
