最終的には人間関係が幸福度を左右するとよく言われます。いくらお金があっても、孤独な高齢者は幸福を感じることなく死を待つのでしょうか。
しかし、やたらと人とつながればいいとは思いません。誰が何をやっているか筒抜けになってしまう狭い共同体には、特有の息苦しさがあります。
先月は青梅の御岳山の宿坊、憩山荘にお世話になりました。
古い建物ですが、隅々まで清められ、女将さんの心づくしの料理。
最初に泊まった日は宿泊客は私一人だけだったのに、にこやかなおもてなしを受けました。
易の本の校正合宿に選んだのは、女将さんの人生の選択について聞いてみたかったからです。
「料理をどこかで修業されたのですか?」と聞くと、お嫁に来て習ったとのこと。先生は、おそらくお姑さん。それは気苦労が絶えなかっただろうと想像するのは、私の狭い価値観で判断しているからで、やりがいを感じながら上手にこなせる人もいるのです。
御岳山の山頂にある30件ほどの宿はすべて武蔵御岳神社の参拝客を受け入れるための宿坊だそうです。インバウンドを見込んで外国人向けのゲストハウスを開きたくても新参者は開業できないでしょう。
宿坊は御師(おんし/おし)と呼ばれる人々が営んでいます。御師は宿を提供するだけでなく祈祷やお札の配布も行い、神社の宗教行事にも参加します。
使命感のある仕事ですが、生半可な気持ちでできることではありません。女将さんの話によると、休めるのはお客さんが来ない日だけ。子どもたちと映画を観に行く約束をしても、急にお客さんが来て映画館の前から引き返したこともあるそうです。
そして、常に共同体からの目があります。
参道のお茶屋さんで「どこに泊まっていますか?」と聞かれて憩山荘と答えると、「あそこは食事がおいしいでしょう」と返されました。ほほえましいエピソードですが、料理が上手ではなく働き者でもないお嫁さんだったら針のむしろです。
憩山荘の女将さんは、もともとお姉さんが繁忙期に宿の手伝いに来ていたそうです。その流れで自分も手伝いに来る流れに。関東一円に講(こう)と呼ばれる村や一族単位で参拝するグループがあるので、その関係者なのかもしれません。
仕事の内容をしっかり理解して、覚悟して嫁いできたのでしょう。
ひるがえってわが身を考えると、近すぎる人間関係は苦手です。全員が知り合いという共同体にはとても暮らせませんし、都会暮らしが気に入っています。
友達の数も少なく、旅はもっぱら一人で行きます。
先日、ウラナイ8の杏子さんとゆみこさんの3人で行った御岳の校正合宿は充実していました。それは、共通の目的があったから。おそらく観光だけの三人旅だったら、各自の好みや価値観の違いが浮き彫りになったでしょうが、ひたすら校正紙を読み上げて赤を入れていく作業の繰り返しでした。
こういう仲間がいるのは、なんとありがたいことか。占いという共通のテーマを持ちつつ、メンバー間に序列を作らず、活動内容も自由というウラナイ8のゆるい関係性に助けられています。
そして、熊野古道の民宿で偶然会ったアメリカ人女性二人と一緒に歩いたのも、忘れがたい思い出です。
2日目の宿で一緒になったシンガポール人女性は、山歩きが趣味で私たちが10時間かけた道程を6時間半で歩きました。
途中で私たちを追い抜いて行ったことを覚えていました。私が日本人だと知ってびっくりしたのは、三人がいかにも仲が良さそうに見えたからだと後から説明してくれました。
「アメリカ人の女の子二人組は元から友達?」と聞かれました。
「一人はロスから、もう一人はフロリダから別々にやってきて、民宿が同じだった」と答えると、「そうよね、二人組のところに新しく一人加わるってむずかしいから」と大いに納得していました。
2日目の宿では、サンドラとリンダという姉妹のように仲のいいイギリス人女性二人組がいました。ジェイン・オースティンからカズオ・イシグロ、イギリス王室と日本の皇室など話題が尽きず、最後に別れるときは本当に名残惜しかったのですが、あの二人と私が三人組になって一緒に行動するのは想像できません。
共通の目的や興味があり、しばりが少なく風通しのいい関係。旅先で出会った人とは一生の友達になるわけではないから、共に過ごす時間だけ親切で快活な人格を演じるのはそうむずかしいことではありません。秋のスペイン巡礼でも、そうしたつながりができるかどうか、不安でもあり楽しみでもあります。