スペインの巡礼に行こうと思い立ち、予行演習のつもりで熊野古道へ。
パワースポットやスピリチュアルは、なんだかあやしげですが、特別な場所というのは存在するのだと実感。その流れで青梅の御岳山にも行き、都内なのにどうしてこれまで来なかったのだろうと思いました。
和歌山県の田辺市はスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ市と観光協定を結び、共通巡礼を打ち出すなど、外国人誘致に完全に舵を切っているのを感じました。
スペイン巡礼に匹敵するのは日本では四国のお遍路だと思うのですが「外国人が増えると伝統が失われる」という反対意見もあるそうです。瀬戸内育ちの私は、中国・四国地方の閉鎖性に嫌気がさして都会に出てきました。森知子『バツイチおへんろ』では、善根宿(家主の好意でお遍路さんを泊めてくれる宿)で男性のお遍路さんがお茶を所望したので「私も」とつい言ってしまったら、女将さんが「あなたは手伝う側でしょう」と激怒したという話がありました。
そういえば、真言宗の総本山である高野山は女人禁制の歴史があり、どうも足が向きません。
植島啓司『神々の眠る「熊野」を歩く』の一節。
高野山が女人禁制を厳しく守ったのに対して、熊野が女性や下層民のみならず、すべての人びとを「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず」受け入れたというのは、当時としてはむしろかなり例外的なことではなかったか。
<中略>
しかも、高野山側は、熊野が「外国から来臨した神」を祀っている点をも非難しているが、神はつねにどこからかやってくるものであり、常住する神などこの世には存在しえないのである。そもそも高野山にしても、インドの仏陀なくしては存在しえなかったのではなかろうか。
さらに、熊野の託宣について。古代の天皇は特別な場所で眠りにつき、夢から託宣(お告げ)を得ていました。これは古代ギリシアのデルフォイの神託に通じ、そうした集合的無意識が下地にあるから、世界の人々が熊野やデルフォイに惹きつけられているのではないかとあります。
熊野は「よみがえりの地」。
神々が籠る深山を訪れることで、心がよみがえり、新たな気持ちになれると言われています。
疫病におびえて暮らした2020年春からの3年間。熊野古道で世界から来た人々との交流により封印が解けたのは、熊野の持つ不思議な力によるものだと思います。
熊野の最初の夜の夢は覚えていません。猫のみゃあちゃんがずっと布団の上で丸くなっていましたが、もしかすると「みゃあちゃんが一緒に寝てくれた」という夢だったのかもしれません。得られたお告げは、「自分の殻に閉じこもらず、開かれた世界に飛び出せ」です。