新しい年を迎えるたびに、新しいことを始めたいと思います。
しかし、現状の私の毎日はほぼ手一杯。
雑誌のライターとして毎週、毎月、毎年巡ってくる締切をこなし、週3回の日本語学校での授業。週4回のスポーツクラブのスタジオレッスン。要介護状態の両親がいる実家は飛行機で1時間、新幹線で3時間の距離。息抜きのため年数回は旅に出ます。
50代も半ばを過ぎ、還暦が近づいているというのに、なんというあわただしさ。
私の読みでは、本業の雑誌ライター業はそのうちなくなるはずでした。
たしかに媒体数は減りましたが残っているものもけっこうあります。占いというコンテンツは女性誌では根強い人気がありますから、延々と続きます。一方、専門誌の翻訳連載も気づけば四半世紀以上続いています。ニッチで専門化されたジャンルもしぶとく続くのでしょう。
新しいことを始めるどころか、いつも何かに追い立てられていようで、オーダーをこなすだけで精一杯。心のゆとりがありません。
世間はお正月ムードでも、外国人相手の日本語学校はあまり休みません。お正月は年が変わるだけで、平日と同じという国から来た学生も多いのです。
昨年は物理的な忙しさだけでなく、精神的にも大いに消耗しました。
学生が休むと「私の授業がおもしろくないから」と落ち込みますし、同僚のベテラン日本語教師からの一言にも敏感に反応していました。
私の教えている作文のクラスは学生のレベルが千差万別で、ひらがなを練習している学生もいれば、日本人顔負けの文章を書く学生もいます。
全体的なテーマを決めることがありますが、基本はそれぞれがレベルに応じて日本語で自己表現をするクラスと位置付けています。
ハマる学生には大いにハマります。テーマがどんどんマニアックになっていきますが、それこそが文章を書くおもしろさだと私は思います。
「作文を教えていると学生とすぐ仲良くなれるのね」と言われたことがあります。学生それぞれの個人的背景が見えてくるから距離がぐっと近くなるのですが、もしかしたらオタクと腐女子の機嫌をとっているだけのチャラいクラスと思われているのではないかと動揺しました。
「作文のクラスって自習みたい」と言う先生もいました。
教師が突っ立っているだけの手抜きの授業と思われているのかもしれません。でも私はみんなが一斉に何かをするという授業を受けるのも苦手だし、教師としてそんな授業をするのも気が進みません。
さらにある時は「筆談ができるようになっても意味がない」と言われました。みんながみんな会話がペラペラになりたいと思っていないのでは。好きな漫画やアニメの字幕の意味がわかるだけで満足という学生もいます。
経験の浅い私がベテランの先生に反論することはありません。でも心の中にはさまざまな思いが渦巻きます。多くの場合、言ったほうは特に深い意味もないのに、私が敏感に反応しすぎて勝手に消耗しているのだと思います。
この本が参考になりました。
反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
- 作者: 草薙龍瞬
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ブッダは、ふつうの人なら腹を立てるようなことを言われても「無反応」で返しました。
<中略>
仏教における勝利とは、相手に勝つことではなりません。「相手に反応して心を失わない」ことを意味するのです。
日本語教師になる前は、田町の仏教伝道協会で開催されるケネス田中先生の「英語で学ぶ仏教講座」に通っていました。
人生は苦しみだらけ。しかし、苦しみは消滅する。それは相手を変えようとするのではなく、自分を変えるしかない。
生きていれば雑多なことを耳にしますが、いちいち反応しない。もういい年なんだから、多少鈍感でも世の中から許されるでしょう。
若さが尊重される社会では、年を取ることは不幸だと感じがちですが、反応しなくなるという点では年寄りが有利です。