人間は一人で生きていくことはできないし、一人で死ぬこともできない。そんなことを痛感させられたのが村井理子『兄の終い』。
両親はすでに亡く唯一の肉親は兄。
もう何年も会っておらず絶縁状態だったところに、警察から電話がかかります。兄が自宅で死んでいた、遺体を引き取ってほしいと。死因は脳出血。第一発見者は小学生の息子(著者にとって甥)で児童相談所に保護されています。兄は二度離婚して息子の親権を取っていたのです。
自宅の関西から兄が住んでいた東北まで行くのも一苦労。しかも兄のアパートはゴミ屋敷。作りかけのカレーや炊飯器のご飯がそのままになっているという描写にぞっとしました。警察署で遺体を引き取り、葬儀屋と打ち合わせして火葬。アパートの遺品を処理して引き払い、兄の元妻とともに遺された甥のケア。こうした一切のことを五日間で片付けます。
私には兄がいますが、このケースとは逆です。兄夫婦は子ども3人を育て上げていますから、どんな死に方をしても子どもたちが何とかするでしょう。それに対し、子どもがいない私が死に、その時点で夫に先立たれていたら、兄のところに連絡が行きます。
そんな事態を避けるために、死後の後始末一切を託せる団体と契約を結びました。もし私が何も手を着けていなかったら、兄夫婦か甥姪に多大な負担を強いることになりますから。自分は死んで何もわからなくなっているとはいえ、生活臭あふれる部屋を家族ではない身内に片付けてもらうのは恥ずかしい。赤の他人でも気が引けますが、金銭を介入させた仕事なら、割り切って片付けてくれるはず。
『兄の終い』の、部屋の描写がリアルです。
最初に感じたのは強い異臭だ。
これは人間が放つ臭いだと直感した。生ゴミというよりは、液体が腐ったような、相当な悪臭だ。
(中略)
キッチンシンクには汚れた皿がうずたかく積まれている。シンクのなかの洗い桶には水が貼られ、そこにも皿や碗が突っ込んである。
つい最近まで調理をしていた雰囲気が色濃く残っていて、フライパンには何かがこびりついており、菜箸は左右が勝手な方向を向いて乱雑に転がり、調味料の蓋は中途半端に開いていた。塩ラーメンの袋が、兄が両手で引っ張り、開封したそのままの形でそこに残っていた。
油とほこりにまみれてべたつくクッションフロアを歩くと、スリッパがフロアに張り付いて、ぺたりぺたりと音を出した。
本人はまさか自分が急に死ぬとは思わず、皿洗いや掃除を先延ばしにしていたのでしょう。
死体検案書の作成費用や火葬の費用を合計するとかなりの出費。糖尿病の合併症を患っていた兄には貯金もなく、すべて著者が出したようです。そのためアパートの片付けを業者に丸投げせず、兄の元妻と取りかかります。
救いは、市役所や学校、甥を預かってくれた里親などがいい人たちばかりだったこと。孤独死が増えてくると行政側もゆとりがなくなり、もっとぎすぎすしてくるかもしれません。そして、膨れ上がった高齢者層が死に向かい、遺体の引き取りを身内から拒否されるケースも出てくるでしょう。
死んだ後のことなんて知らないと言い切ることもできますが、やはり生きているうちに身辺整理をしておきたいものです。子どものいない場合は特に。
沖縄のやんばるのお墓。清明祭りにゆかりの人々が集まって宴会を開けるように設計されています。墓から海が見渡される絶好のロケーション。これなら死者も悔いなく死後の世界を大いに楽しめるのでは。