アガサ・クリスティの『葬儀を終えて』。
富豪の葬儀で親戚が集まります。少々頭の弱い妹が「兄は殺されたんでしょう?」と無邪気に言い放つことからストーリーが始まります。
母が昨年の12月16日に亡くなりました。
高齢の父は肺炎で入院中。頼りになる長男だった兄は一昨年の夏から闘病中。
父から「この家でまともなのはお前だけ。葬式を二つ出してくれ」と言われました。
高校卒業と同時に家を出て、好き勝手に生きてきた私。結婚はしたけれど子供は作らず、仕事はずっと自由業です。
兄はまともな会社に就職して結婚し、子どもも3人。実家のことは兄に任せておけばいいと思っていたのに、すべてが崩れてしまいました。
母が入所している施設に、看取りまでお願いしていました。
パーキンソン病で体の自由が徐々に失われて、父と兄の考えで胃ろうを選択しました。ドライな私は「母はさっさと死にたいだろう」と思ったのですが、ウェットな父と兄は
「どんな形でも生きていてほしい」と願いました。
今は「回復の見込みのない高齢者に胃ろうはいかがなものか」「北欧に寝たきり老人がいないのは、自然死を選ぶから」などの報道もあるのですが、数年前の日本では医師の言われるままに胃ろうを選択せざるを得ない状況でした。
自宅での介護がむずかしくなり、施設にお願いしてから母の頭は一気に衰えていきました。「家族から見捨てられた」という絶望感もあったのでしょう。でも、家族はそれぞれの事情を抱えていたのです。高齢の父の老々介護は限界に達していたし、兄と私にはそれぞれの家庭があります。
施設に入れた時点で、私の中では母の人生は終わったも同然だと思っていました。
栄養を受け付けなくなったと施設から連絡され、仕事のあれこれを片付けて帰省。5日目に母が亡くなり、それからは通夜、葬儀、初七日と各種手続きに追われました。お正月を挟んだのであわただしさも加速されましたが、年末年始の休みと重なったので、結果的に歯仕事先にあまり迷惑をかけずにすみました。
12月では喪中のはがきを出すのもタイミングが悪いので、年賀状を受け取りました。
寒中見舞いで母の死去を伝えると「さぞお力を落としでしょう」という返信がありましたが、とにかく忙しくてあまり実感がわきませんでした。
母が死んだということをリアルに感じるようになったのは、四十九日の法要後。
意に反して専業主婦になってしまった母は、私が仕事をすることをいつも喜んでした。自分の死で娘の仕事の妨げになってはいけないと年末の死を選んだのかもしれません。
クリスティの『葬儀を終えて』で放たれた真実の言葉。
母の四十九日を終えて、そろそろ私にも母からのメッセージが聞こえてきそうです。
門司駅の線路の行き止まり。「線路は続くよ、いつまでも」じゃなくて終わりがあります。