これこそ、私が読むべき本だと手に取ったのが『グランマ・ゲイトウッドのロングトレイル』。
昨年、シェリル・ストレイドの『わたしに会うまでの1600キロ』を読んで長い距離を歩いてみたいと思うようになりました。
私の年齢に近いのはシェリルより67歳のエマですが、読み進むにつれてエマと私はあまりにも違うことがわかってきました。
1887年生まれのエマには、11人の子ども、23人の孫がいます。当時のアメリカには子沢山の女性がたくさんいたのでしょう。ボブ・ディランの『ハッティ・キャロルの寂しい死』でも、10人の子どもを産み育てたホテルの配膳係が歌われています。
エマはずっとアパラチアン・トレイルのことを考えてきて、ようやく出発できた1955年には67歳になっていました。身長157センチ、体重68キロ(歩き始めて3カ月で靴を3足履きつぶし、11キロ近く減量しました)。トレイルの費用は介護施設で働いて貯めました。そして、子どもたちにも言わずに家を出ます。誰かに話せば止められると思ったからです。
何の音沙汰もない母親が一体どこで何をしているのか子どもたちは知りもしなかったが、誰一人として心配はしていなかった。ママは骨ばっていて頑強で、不在だとしても、どんなことを目論んでいたとしても大丈夫なのだと彼らは知っていた。エマが長いこと留守にするのは珍しくなかったから、そういえば姿が見えないと思ったとしてもそれを長く気にすることはなかったのだ。
トレイルを歩くエマの記録と並行して、彼女の苦難の人生が描かれています。。
夫は富豪の御曹司で地域では数少ない大学の学位取得者。熱烈にプロポーズされて結婚しますが、とんでもないDV夫でした。エマを自分の所有物のように扱い、フェンスづくりやタバコの加熱処理、セメントの混錬のような男の仕事もやらせたうえ、気に入らないことがあると徹底的に痛めつけました。子どもが次々と生まれ、実家も子沢山の貧しい家庭で頼れず、十分な教育も受けていないから働き口もありません。
エマの忍耐が尽きたのは1939年の9月。顔は腫れてあざができ、上下の歯が折れ助骨にもひびが入りました。離婚が成立したのは1941年。結婚35年でエマは53歳になっており、「あれからずっと幸せでいる」と書いています。
「なぜ歩くのか」と聞かれて、エマはいろいろと答えています。
「子どもたちがようやく家を出たから」
「これまでスルーハイクをした女性はいないと聞いたから」
「自然が好きだから」
「楽しいにちがいないと思ったから」
「山の向こう側がどうなっているか見たかった。そしてその向こう側も」
エマが夫の暴力から逃れて、安心できる場所が森でした。歩くことが好きで森の静けさや安らぎに畏敬の念を感じ、詩を書いて過ごしました。そして、暇な時間ができると百科事典やギリシャ古典に読みふけりました。
女性が当たり前に進学できる時代に生きていれば、あるいは結婚相手がDV夫でなければエマの人生はまったく違うものになっていたはずです。時代や夫に奪われた人生を取り戻すために、エマは一人で歩いたのだと思います。
著者は「世界を探索することは自分の心の中を探るのによい方法なのだ」とエマは考えたのかもしれないと付け加え、そして「トレイルでは、人生のつまらないもつれのようなものが、蜘蛛の巣を取り払うようになくなってしまう」という彼女の言葉を紹介しています。
人生の終盤が近づいても、一人で歩く勇気を持ち続けたエマは、あこがれの存在です。
帯広の旅では、帯広畜産大学のカフェにも行きました。春と秋の北海道なら、長い距離を歩いてみたいものです。