今はバブルなんでしょうか?
たしかに株式相場は高値を更新しているけれど、私が体験した1980年代とは雰囲気はまったく異なります。あの頃は社会全体が浮かれていました。
そんな思いから手に取った『そして、海の泡になる』。 帯にこうあります。
私たちはまた同じ過ちを繰り返してしまうのか
東洋占術では、十干十二支で60年が一つのサイクル。1929年の世界大恐慌から約60年後にバブルが再び崩壊しました。
しかし、六十干支は資本主義や株式取引以前からあったものですし、そんなに規則的に値が動くなら東洋占術をかじった人はみんな大金持ちになっているのでは。
昨年春にはコロナによる株式暴落があり、バブル崩壊に匹敵するのかと思いましたがまさかの回復。この2月に暴落するといううわさも流れていますが、それがわかれば苦労しません。
『そして、海の泡になる』を読んだことで「目の色を変えて蓄財したところで、それが何になる」というある種の達観を得ました。
小説のモデルとなった尾上縫(バブル期に個人市場の最高額の負債を抱えて倒産した相場師の女性)と刑務所で同室となったのが、カルト宗教の信者である両親に育てられた女性という設定です。巨額のマネーゲームと教義に縛られた清貧な生活の対立が鮮やかです。
その宗教は資本主義に背を向けて、教団お墨付きの”浄品”のみを使うように指導されています。ただでさえ所得が高くない信者は、この縛りによりますます貧しい暮らしを強いられます。
女性は同じ境遇の男性と駆け落ちします。熱心な信者である親からは勘当されましたが、自由な生活を手に入れたのです。
スーパーの品ぞろえは”浄品”よりもずっと多様ですが、選択肢が多ければ、それだけ迷いも生まれます。俗世には「いい物」がたくさんありますが、何を選んでも「もっといい物」があるような気になってしまうのです。そして「いい物」や「もっといい物」を選ぶためにはお金が必要です。
私たちは以前なら教団への奉仕活動をしていた時間も働くようになり、自由になるお金は増えました。割高で品質もよくない”浄品”ではない、物やサービスを選ぶことができるようになりました。しかし同時に「欲しいのに買えないものがある」とか「やりたいのにできないことがある」という苦痛を、より多く味わうようになったものです。
シーナ・アイエンガーの『選択の科学』を思い出しました。
この本で印象深かったのは、ベルリンの壁崩壊後の東ドイツ市民。
たとえば、西側社会の豊かさの象徴である炭酸飲料。コカコーラ、ダイエットコーラ、ペプシ、スプライトなど何種類もの炭酸飲料を前に「選択肢が多すぎると選ばされるプレッシャーを感じる」という消費者が続出したのです。
選択の自由がある社会はすばらしいようでいて、重圧も伴います。『そして、海の泡になる』にはこんな一節もあります。
私にとって自由は必ずしもいいことではありません。だって自由に自分の意思で何かを選んだら、その結果を自分の責任として引き受けなくてはならないから。間違ってしまったらどうしようという心配がいつも付きまといます。誰か自分より間違わなそうな人に全部決めて欲しいと思うことはしょっちゅうです。いえ、私は実際、子供の頃は親と神様に、駆け落ちしてからは彼に、何でも決めてもらおうとしていました。自由から逃げたかったんです。
占い業界に身を置く者としては、「そこで占いですよ」と身を乗り出したくなります。占いは、とりあえず目の前にある選択肢のうちどれを選ぶかのヒントを与えてくれます。多すぎる選択肢を前に途方にくれたら、思考を整理するために使ってみてはどうでしょうか。そして占いの結果は絶対ではなく、強制でもありませんから、最終的に選ぶのはあなた自身です。
コロナのため朝食バイキングをセットメニューに変えたホテル。私はこのほうが楽。バイキングではきれいに盛り付けられませんし、「取り過ぎたかも」「あれも食べたかった」といった迷いが交差してゆっくり味わえません。