五所川原の旅、第三弾。
行きの飛行機で太宰の『津軽』を読み返しました。クライマックスは、太宰を3歳から6年間育てた子守りのたけとの再会。太宰は「生まれてはじめての心の平和を体験した」と表現するぐらい感動しています。
先年なくなった私の生みの親は、気品高くおだやかな立派な母であったが、このような不思議な安堵感を私に与えてはくれなかった。世の中の母というものは、皆、その子にこのような甘い放心の憩いを与えてやっているものなのだろうか。そうだったら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるに決まっている。そんな有難い母というものがありながら、病気になったり、なまけたりしている奴の気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかった。
たけが太宰の家に奉公に来たのは太宰が3歳の時で、たけは14歳。太宰の思い出の中ではたけはそんな若い娘ではなく、老成していたということは、感情が安定して愛情深い理想的な養育係だったのでしょう。たけの言葉も胸を打ちます。
三十年ちかく、たけはお前に会いたくて、会えるかな、会えないかな、とそればかり考えて暮らしていたのを、こんなにちゃんと大人になって、たけを見たくて、はるばると小泊まで訪ねてきてくれたかと思うと、ありがたいのだか、うれれしいのだか、かなしいのだか、そんなことはどうでもいいじゃ、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行った時には、お前は、ぱたぱたと歩いては転び、ぱたぱたと歩いては転び、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持ってあちこち歩きまわって、蔵の石段の下でごはんを食べるのが一番好きで、たけに昔話語らせて、たけの顔をとっくと見ながら一匙ずつ養わせて、手数もかかったが、愛(め)ごくてな、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ。金木へも、たまに行ったが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでいないかと、お前と同じ年ごろの子供をひとりひとり見て歩いたものだ。
熱海の温泉宿で豪遊して所持金が足りなくなり、友人の壇一雄を人質にして東京にお金を借りに行ったエピソードから『走れメロス』を書いた太宰ですから、この話も相当脚色しているし、たけはこんなことは言っていないという説もありますが、太宰が母から本当にかけられたかった言葉なんでしょう。
上に子供が何人もいる状況では、生みの母は六男の太宰に心を砕くことが少なかったのかも。太宰のどうしようもないクズ歴史を重ねた人生は、実の母親から安堵感や肯定感を得られなかったことに原因があるのかもしれません。
それを言うなら、私も母親との関係はそんなに密接ではなく「甘い放心の憩い」なんて記憶にありません。毒親という言葉もあるくらいだから、血のつながりがなくても、たけとこれだけ密接なつながりが持てた太宰は幸せなほうかもしれません。
そして吉幾三。コレクションミュージアムに展示してあった地元紙の記事によると、中学を出て吉幾三が上京する際、母は青森駅まで見送って、泣いて別れを惜しんだとあります。「いつ戻ってきてもいい。今、一緒に帰るか」と引き止め、雪の中、電車を追いかけて走る母。あまり泣くので駅員になぐさめられるほどだったそうです。母親は9番目の末っ子の吉幾三にたっぷりの愛情をかけて育てたのでしょう。『かあさんへ』という曲で「住みついた都会 老いてゆく母に 泣き泣き書く手紙」と歌っています。
同じ五所川原出身ですが、大地主の家に生まれた太宰に対し、小さな水田しか持たずよその水田の手伝いの日当で生計を維持していた吉幾三の実家。
数多くの名作を残したものの、薬物中毒で自殺未遂を繰り返し、30代でこの世を去った太宰。吉幾三は飲み続けると歌えなくなると診断されきっぱり断酒し、後進を育成して世の中に恩返しをしたいと語っています。
親ガチャという言葉がよく聞かれますが、経済状況だけで親ガチャが当たったとか外れたとか判断できません。相性もあるだろうし、親子関係はなかなかむずかしいものだと改めて痛感しました。