コロナ危機を言い当ててないから占いなんて意味がないという批判が起こりました。東日本大震災後も同じような流れになり、雑誌の占い原稿の依頼が一気に減りました。
迷信みたいなことを排除し、エビデンスに基づいた科学だけに従っていればいいのでしょうか。科学はすべてを解明しているわけではないし、人は数字だけで割り切れません。
病床があっても医師と看護師が逼迫し医療崩壊が叫ばれています。もし私がコロナに感染したら若い人に呼吸器を譲りますが、チャプレン(病院聖職者)を求めます。キリスト教でも仏教でもかまいません。そう思うようになったのはこの記事を読んだから。
この日、治療を断念したのは、50代の白人の女性。ほんの数日前までは元気だったんだ、と傍らで夫が泣き叫ぶ。コロナウイルスで持病が悪化し、あっという間に多臓器不全の危篤状態に陥った。 「これ以上、医学にできることはありません」
夫は医師に、そうはっきり告げられた。あとは人工呼吸器でかろうじて命をつなぐだけだ。しかし、夫婦は十分な医療保険に入っていなかった。国民皆保険の制度がないアメリカでは、集中治療室に一日いるだけで1万ドル、100万円以上かかる場合もある。だから医師のもと、「人工呼吸器を切る」という重い決断を迫られる家族が非常に多い。 「神がいるなら、どうして妻を奪っていくんだ!」 現実を受け止められない夫は、関野さんに詰め寄った。 「わかりません。僕も神に怒りを感じます。でも、奥さんはきっと、神に必要とされ、優しさに包まれて旅立っていった。それだけは信じています」
集中治療室にいるだけで一日100万円! 日本は国民皆保険だから高齢者も集中治療室に入れるでしょうが、今後はどうなるのでしょうか。
アメリカではコロナの別名は「ブーマー・リムーバー/boomer remover」。戦後のベビーブームの時代に生まれ高齢者となった世代がコロナで除去されれば、社会保障費の大幅な削減につながり、産業構造もどんどん効率的になります。高齢者の視聴者が多い日本のテレビでは報道するのもはばかられる言葉です。
超高齢化が進む日本では、高齢者より育児や教育をお金をかけてほしいのですが、「お年寄りを見捨てるのか!」と非難されそうです。社会にとってはお荷物の高齢者でも、家族にとってはかけがえのない存在という場合もあるでしょう。あるいは、潤沢な年金をもらい続けるためにどんな形でも生かしておいてほしいという家族もいるそうです。
限られた予算ですべての命を助けるのは不可能。誰かにしわ寄せがいくのは避けられません。そんな状況で死ぬとしても、せめてこうした言葉をかけて送ってほしい。
「わかるよ、クソだよねこの世界は。この病室も窮屈で、俺も牧師なのにこんな格好でごめん。でもさ、3分間ここにいるから、なんでもいい。吐き出してくれ。ぶつけてくれ。だから3分たったら、少し落ち着かないか」
聖職者らしからぬことだってときには言うが、それが関野さんのスタイルだ。そこに患者は安堵し、涙を流して苦しみや不安を吐露する。関野さんはひとことひとことにうなずき、しばし一緒に過ごす。
ときには、呼吸が乱れマスクもできない患者に懇願されることもある。
「不安なんだ。手を握ってほしい」 手袋越しではあるが、しっかりと手を握りしめて、孤独ではないことを伝える。感染のリスクを常に抱えながら、関野さんはコロナ病棟を行き来する。
ケネス田中先生の「英語で学ぶ仏教講座」でこんなテーマが取り上げられました。
ケネス先生がカリフォルニア州のお寺の住職をしていた時、50代の女性信徒ががんで亡くなりました。信心深く勤勉で誰からも好かれていたので、多くの信徒から「どうしてがんで亡くなったのが彼女なのか」「どうしてこれほど善い人に悪いことが起きるのか」という疑問が沸き起こりました。
ケネス先生の教え。
人生を垂直な面(精神領域)と水平な面(世俗)がある。カルマ(因果)は垂直な面だけに作用する。人の一生が成功だったか失敗だったかは水平な視点だけでは判定できない。がんで亡くなった女性信徒は、智慧と慈悲をもって充実した人生を送り、理解と勇気を持って死に向き合った。長く生きたから成功した人生とは限らない。
バンコク郊外の涅槃寺(ワット・ポー)。こんなところに行けるのなら死ぬのも悪くないと思わせるのが宗教の役割の一つでしょうか。