欲深いのはしかたがないけれど、あさましいことはしたくない。
服やバッグ、靴と欲しい物がいっぱいでも、一番欲しいのは「幸せな結婚」という女性が大半のはず。「こんな結婚がしたい」と公言して自ら動き回ったほうがいいのか、流れに従ったほうがいいのか。
東晋の時代の書聖人、王義之にとても興味深い結婚のエピソードがあります。
王義之の妻はかなりの名家の出。娘婿を選ぶにあたり、父親は上流階級の息子たちが集まっている屋敷に配下の者を派遣します。
「婿選びの使者が来た」と色めき立つ若者たち。姻戚関係はその後の出世に大きく影響するため、緊張した面持ちで使者を迎えます。
そんな中、平然と東床(東の寝床)で寝転がっていたのが王義之です。この話を聞いた父親は即座に王義之を娘婿に選びました。
こんな経緯で結婚した二人ですが、けっこううまくいって幸福な夫婦生活を送ったそうです。もともと王義之は立身出世に興味が薄かったのか、中央政府を離れ風光明媚な地方の長官になり、早めに引退して書の世界を楽しみました。
「幸せに暮らした」と伝えられているものの、妻の胸中まではわかりません。
「もっと出世してくれたらいいのに、うちの人ったら、欲がなくて」とイライラしていたのかもしれません。それでも、生活に困るわけでもなく、競争のストレスもない暮らしは、けっこう楽しいんじゃないかと想像できます。
もともと恋愛結婚じゃなかったのもよかったのかも。最初の期待値が低いから、結婚後に徐々に絆が深まっていったのでしょう。
一方、小津安二郎の映画は「娘を結婚させる」が繰り返し取り上げられるテーマです。
最後の監督作品となった『秋刀魚の味』では、妻に先立たれた父親(笠智衆)が娘(岩下志麻)を結婚させようとします。
娘が息子の友達を好きらしいと知り、その男性の気持ちを確かめようとするのですが、時すでに遅し。その男性はかつて娘に思いを寄せていたのですが、娘のほうに結婚する気がなくて別の女性と婚約していました。妻に先立たれた自分の世話をするために娘は自分の結婚を封印していたのかと、自責の念にかられる父親。
ひそかに恋い焦がれている人について、父親と兄からどうこう言われるなんて、恥辱の極みだと思うのですが、昭和30年代ならそういうこともあるのでしょう。最愛の娘を嫁がせる父親のほろ苦い思いが「秋刀魚の味」です。
「秋刀魚の味」は娘が嫁いだ日で終わり、その後、娘がどうなったかどうかは観客の想像に任されます。
王義之の結婚のようにうまくいったのか、それとも「父親に言われ、好きでもない男と結婚してしまった」と後悔する毎日を送るのか。
人生は一度きりで、どちらが正しかったのか検証することはできません。だから、選択を悔むより、現実を受け入れた上でどういう生き方を選べば運命が好転していくのかを考えるしかありません。
帯広の屋台で食べた秋刀魚。