家のない状態から、今や熱海と菊名の家でさまざまな人を受け入れる坂爪圭吾さん。
私が坂爪さんのブログを読むようになったのは、カウチサーフィンを始めたころです。初対面の外国人旅行者を家に泊めるというと、たいていの人から「そんな危険なこと!」とびっくりされました。
カウチサーフィンの場合は、あらかじめメールでやりとりできますし、レファレンスをチェックすれば、その人がどんなカウチサーファーであるかがわかるので、それほどリスクは大きくありません。
坂爪さんの「ごちゃまぜの家」にはそんなフィルターがないので、どうやってトラブルを防いでいるのか疑問に思っていました。
その答えがここに書かれていました。
坂爪さんは結界を張っています。
結界を張るとは『神社感を醸し出すこと』だと思っている。神社には、空間全体の雰囲気から「ああ、ここは静かに過ごす場所だな」とか「大きな声を出して騒ぐ場所ではないんだな」ということが伝わってくる(ものだと思う)。決して『騒ぐな!』とか『静かにしろ!』と言われたから静かにするのではなく、その場所の空気感を通じて「ああ、ここは静かに過ごす場所だな」ということを感じ取ることができる場所。わたしは、このような神社感を醸し出す空間を目指す行為を『結界を張る』という風に呼んでいる。
自分の家に結界を張りたいし、日本語教師としては、自分が教えるクラスに結界を張りたいと切実に思います。
私が教えているのは選択制の作文クラスで、ひらがなの練習をする学生から、日本人顔負けの文章を書く学生まで、レベルは千差万別です。そのため一斉授業はできず、各学生に応じた課題を与え、質問を随時受け付けるスタイルで進めています。
ときどき、教室が乱れます。どこかで私語が始まり、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語など自国語を話す仲間が見つかると、ここぞとばかりにおしゃべりが盛り上がります。
10人ほどの学生に対し教師は私一人なので、質問が重なった時など、上級者が下級者に教えることも推奨しています。そのため私語は一切禁止というわけではなく、日本語が上手になるための私語なら構いません。
問題なのは、作文クラスなら何かを強制されることもなく、ただ出席するだけでいいと学生が考えることです。
私が教えている日本語学校は、留学ビザではなく観光ビザの短期留学生がほとんどなので、出席率が問題になることは少ないのですが、費用を出してくれた親の手前、欠席ばかりでは叱られるという学生もいるはずです。出席稼ぎのために好きでもない作文クラスに登録した学生は、80分の授業が退屈でしかたがないのでしょう。
そんな学生を放置すると、まじめな学生から「私語が多くて集中できない。教師が学生をコントロールしていない」というクレームが来ます。
だから、教室に結界を張りたい。かといって、私語を口うるさく注意したくありません。
文法を学ぶというより、日本語で自分を表現する創造性を伸ばしたいので、あまりぎすぎすした雰囲気にしたくないのです。
私の目標は坂爪さんと同じ。
強制されて何かをやるのではなく、自ずから『そうしたくなる』ような空間を目指すこと
そのために具体的なノウハウがあるわけでなく、教師としての私の姿勢が問われているのでしょう。
まだまだ満足のいくクラス運営のレベルには到達していないのですが、学生自ら「日本語を書きたくなる」ような空間を目指して、試行錯誤を重ねています。
アラン・コーエンの言葉も示唆に満ちています。
他人はあなたが「何を言い、何をしてくれたか」は忘れるかもしれない。
けれどあなたが「どんなエネルギーでそこにいたか」は覚えているものです。
日本語の細かい文法は忘れてしまっても、学生たちは私がどんなエネルギーでクラスにいたかを記憶するのでしょう。
いすみ市の國吉神社。
この2年間、神社でお願いしてきたことはただ一つ。「私を日本語教師という道具としてお使いください。もし役に立たない道具なら、辞めさせてください」。横須賀、広島、愛媛、高知、仙台、沖縄と各地で手を合わせてきました。