パトリシアの宿で「今日一日だけ」の心構えを知ったというのに、巡礼路を歩くのもあと1週間となってすっかり気が緩んでいたポンフェラーダの街。つい日本に帰ったら温泉でゆっくりしたいという気持ちが湧き起こり、心ここにあらずの状態で歩いていました。
スペインの過酷な日光と乾燥にやられて肌がボロボロなので、美肌の湯で探そうか。移動が面倒ではなく、東京から電車かバスで一本で行けるところがいいな。米どころ新潟もいいし、日本の温泉の底力なら草津かな。手前に伊香保温泉があったはず。
夢想がどんどん広がって心は完全に日本の温泉地を巡っていました。そして次の瞬間ばたりとうつ伏せで地面に倒れ込んでいたのです。
信じられない! 足元の悪い山や峠を慎重に歩き通してきたのに、こんな街中で転ぶなんて。しかし顎を地面にぶつけたようで、口から出血しています。
こんな平坦な道です。この時前を歩いていたのはオーストラリア人カップル。歩くのが遅いので「お先にどうぞ」と道を譲るついでに、「どこから来たの?」と自己紹介タイムに。次は日本を歩きたいというのであれこれ観光案内したことで心が日本に飛んでいったのかもしれません。
とりあえず起き上がって土埃を払っていると、数メートル先を歩いていたカップルが駆け寄ってきました。「大丈夫です。そんなに痛くないから、深刻な怪我はしていないと思います」と口走りましたが、恥ずかしさと情けなさで泣きそうでした。
「顎を打ったみたいだね、口を開けてみて」という男性。
「左側の唇の内側が切れて出血している。特に治療を受けなくても数日で治るから心配しないで。水は持っている? まず一口飲んで落ち着いて。しばらくは右側だけで食事をするように。あ、私は引退したけれど医者なんで」
飛行機や新幹線で急病人が出て「お医者さんはいらっしゃいますか?」というドクターコールが流れることがありますが、カミーノでは転んだとたんに医者が現れるとは。
ゆっくり歩いて行くから大丈夫と、二人に先に行ってもらいましたが「何かあったら電話して。スペイン語ができないのでは万一悪化して病院に行っても困るだろうから」と連絡先までもらいました。ロンドン在住のルービンとベリンダ夫婦です。念のために掛け捨ての海外旅行保険をかけてきましたが、ルービンのアドバイスに従って自然治癒を待つことにしました。
しばらく歩いてバルの前を通ると中からルービンが出てきました。私が到着するのを待っていたのでしょう。
「ここで休んで何か飲んでいくといいよ。何が飲みたい?」と私の分まで飲み物を買ってくれ、代金を受け取ろうとしません。
二人は大の日本好き。何度も旅行に来て北海道も沖縄にも行ったそうです。ベリンダの趣味はジョギングで皇居の周りを走ったとうれしそうに話してくれました。
「私も一度、道で転んだことがあるのよ。走っていたから勢いがついてて、治療が大変だった。その時のことを思い出して、あなたのことが心配でたまらなかったの」
その日の夜にも「無事にアルベルゲに着いた? 気分はどう? 何か具合が悪いところがあったら遠慮なく知らせて」というメールをもらいました。こんな名医に自費でかかったらどれだけ費用がかかったことでしょうか。
カミーノの歩き始めの頃、大雨で山道が濁流となりいっしょに歩いていたアンジェラが足を傷めたことがありました。
怪我をしたのは私だったかもしれないと、あんなに自分を戒めてずいぶん慎重に歩いてきたのに、つい気が緩んだ一瞬の出来事でした。
転んだのは痛かったけれど、ちょっとほっとしています。小さなトラブルはあったけど全体的に順調すぎて、巡礼がこんなに簡単なわけがないという気がしていたのです。
しかも道での転倒には苦い思い出が。台北最後の夜、酔っ払って繰り出した士林夜市で転んで前歯を折るという痛恨の事故があったのです。この時は帰国前日だったので、翌日には成田空港から歯科医に電話して予約を取りました。
歩くことを極めるのは一生無理かも。調子に乗っていい気になっていると即座に足元をすくわれます。