日本語教師として4年目の春を迎えるはずでしたが、休職を決意しました。気持ち的には退職に近いのですが、流動性が高く人の出入りが多い職場なので、慣例に従って休職にしました。「夏には戻りますか?」と聞かれましたが、先のことはまったくわかりません。とにかく休みたい一心です。
きっかけは母の死です。
危篤の一報を受けた実家に向かっても、「授業があるのに、どうしよう」「いつ東京に戻れるのだろう」「代講の先生はうまくやってくれているだろうか」とひたすら仕事のことばかり考えていました。
葬儀が12月18日で、後片付けや各種手続きもあり、そのままクリスマスと年末年始休暇になりました。学校の授業はあるものの、帰国や旅行で学生数がぐっと減るため、休みやすい時期だったのです。
3週間も連続して休んだのは、日本語教師になってから初めてのことです。外資系の学校なので年末年始もお盆も休校にならず、私はひたすら皆勤を続けていました。
そして、母の四十九日のために1月下旬、神戸に向けて新幹線に乗りました。
車中で「日本語教師、辞めよう」と決意しました。ひとたび辞めようと思い立ったら、それ以外の選択肢は全然思い浮かばず、周囲に迷惑をかけずに最短で辞められる日を考えるようになりました。
日本語教師になった時の目標は「東京オリンピックまで続ける」。
そして、出処進退は自分で決めずに、成り行きに任せるようと思っていました。
それなのに突然、気が変わりました。どんなに気分を振り立たせようとしても、もう無理だとしか思えません。前日の授業では「もっと学生が日本語を書きたくなる質問や例文はあるか」なんて考えていたのに。
熱意を持って取り組んでいたのに、急に熱が冷めてしまう話です。
戦後すぐの話で、語り手は26歳の男性。
戦時中は兵隊になって千葉の兵舎で玉音放送を聞きます。若い中尉が「我々軍人はあくまでも抗戦を続けて最後には自決する」と演説し、主人公も厳粛な気持ちになり死のうと思います。
そこに兵舎から金づちでくぎを打つ「トカトントン」という音が聞こえます。それを聞いたとたんに、一気に白々しい気持ちになり、故郷の青森に帰ります。
故郷では郵便局に就職するかたわら、小説を100枚近く書きます。ようやく完成が近くなり、終章をどうしようかと思案しているところに、また「トカトントン」。原稿用紙は鼻紙にします。
次に熱中するのが郵便局の仕事。「平凡な日々の業務に精励する事こそ最も高尚な精神生活かも知れない」と、円貨の切り替えの忙しさもあり、死に物狂いで働きます。
そこでまた「トカトントン」。
次は恋愛、そして社会運動、スポーツ…。何かに夢中になると必ず「トカトントン」。
「この道何十年」と打ち込める人もいるけれど、人の気持ちは変わりやすいもの。トカトントンが聞こえてしまったらしかたがない。太宰の軽快な筆致で一気に読んだ私はそう思ったものです。
そしてついに私も「トカトントン」を聞いてしまったのです。
外国人好きの私には最高の職場でした。
作文(ライティング)のクラスの担当は私一人。授業のシステムも自分だけで決めて、好き勝手にやっていました。
毎週のように新しい学生が入って来て、刺激的で楽しい教室。1年で100人ほどの学生に出会い、3年で300人。気の合った学生とはメール交換も続けています。
その一方で、授業準備はかなり負担でした。ライティングのクラスですから、全員一斉同じことはできず、一人ひとりに対応していたからです。自分だけしか担当していないので、代講も気軽に頼むことができず長期旅行にも行けませんでした。
そして母の死をきっかけに気づいたこと。
私は母に認められたくて、日本語教師になったようなものだ。
専業主婦だった母は、家の中に閉じ込められて舅・姑と子供だけを相手にする生活がほとほと嫌だったんだと思います。しかし他に選択肢はありませんでした。娘の私には、家の手伝いをするより、勉強していい学校に行って社会で活躍することを期待していました。
私が雑誌のライターになってフリーランスで食べていけるようになったことを喜んでいましたが、外国人相手の日本語教師も母にとって評価の高い仕事でしょう。
60近くになっても母がどうこうというのは恥ずかしいことですが、案外、そういう人は多いのかもしれません。
ともかく、母の四十九日に向かう新幹線の中で私は「もうがんばらなくてもいい」と悟りました。
次に何をやるかは決めていません。今はひたすら休みたいだけ。
欲の深い私は、何もしていない自分に満足できなくなるでしょうが、そうなったらそうなったときのことです。