村上春樹の小説に、大学でスペイン語を教えている男性が「砂漠に水を撒くような仕事」と言い換えるシーンがあります。
その国に移住するというのなら、言語の習得は最優先事項です。
でも、大学での副専攻とか、私が教えている日本語学校の学生のようにオタク趣味が高じて来日した学生にとっては、趣味の延長のようなもの。
村上春樹は翻訳を数多く手がけ、アメリカの大学で日本文学を教えたりスピーチもしています。英語以外にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ギリシャ語、トルコ語を学ぶなど、かなりの外国語好きのよう。
でも、年を取ってくるとさすがの村上春樹も「スペイン語やトルコ語の動詞活用をやみくもに覚えたりするよりは、自分にとってもっと切実に必要な作業があるのではないかという気持ちが先に立ってくる」と書いています。
この本に、村上春樹がアメリカでスペイン語教室に2か月ほど通った体験が書かれています。語学教師になった私にとって、とても考えさせられるエピソードです。
クラスは4人。村上春樹に、年配の主婦が2人、そしてヤッピー風の銀行員。
この銀行員は会社の命令でスペイン語を習うことになり、「本当は語学なんかやりたくないけれど、会社が授業料をだしてくれるからいいけれど」なんて愚痴ばかりこぼしています。
もともとやる気がない上に、語学のセンスもなく、文法も発音も覚えられずクラスの進行の邪魔になっていきます。
自分はこの初歩スペイン語のクラスで無力だけれど、社会に出ればいっぱしの人間なんだということを誇示したがる。はっきり言ってたまんない男である。先生もかなりめげていていたみたいだけれど、アメリカのこの手の学校の先生は生徒からちょっとでもクレームがつくとアウトなので、我慢強く最低の生徒にペースを合わせて授業を進めることになる。誰かがひっかかっていると、先に進めない。こうなると「生徒」というよりはむしろ「カスタマー」と呼んだほうが近い。
この箇所で私は何度も頷きました。
フィンランド好きが高じてフィンランド語を習いに行ったのですが、短期記憶が試されるような授業ですっかり嫌になりました。
たとえば、野菜や果物の模型を使って、「なになにを食べます」、「なになにを買います」などを教師に指名されて発言していきます。
瞬時に名詞と動詞を覚えて声に出すのは、けっこうきついものがありました。そういうのが得意な人と苦手な人の区別がはっきりわかります。
自分の記憶力の悪さに嫌気がさして、フィンランド語教室に行かなくなりました。
そんな苦い経験があるから、私が教える日本語学校の作文クラスは「自分のレベルで、自分のペースで書きましょう。すべてはあなた次第」をキャッチフレーズにしています。
外国語を学ぶのはかなりのストレスです。
たしかに、恥をかいて記憶にインプットする方法もありますが、AIが普及すれば、そんな苦労もなくなるかもしれません。
何がいいのか試行錯誤しながら、日本語の授業を続けています。
反応のない語学学習ほど悲しいものはないと思います。