翡翠輝子の招福日記

フリーランスで女性誌の原稿書き(主に東洋占術と開運記事)を担当し、リタイア生活へ移行中。2023年8月下旬からスペイン巡礼へ。ウラナイ8で活動しています。日本文芸社より『基礎からわかる易の完全独習』刊行。

現代のディオゲネス、phaさん

ニート(ではなくなったそうですが)のphaさんの書くものがおもしろくて、3年前にはトークショーまで行きました。
http://d.hatena.ne.jp/bob0524/20121004/1349276610

phaさんの新作もkindleで読了。

フリーランスのライターという絶滅しつつある職種で、年齢的にも引退が見えてきた私にとっては、「仕事」についての章が特に心に沁みました。

「ほとんどの行動は『暇潰し』」とphaさんは書いています。

 多くの人の本当の行動の目的は、「暇潰し」というか「何もしていないと不安だからなんでもいいから何かをやっておく」くらいのものだ。「仕事をこなすことで達成できる何か」なんてものは、何か行動するときにとりあえず目標がないと何をやっていいか分かりにくいから、前方の遠くに飾っておく単なる目印みたいなものだ。

だから、仕事(暇潰し)をやるかどうかは、個人の趣味の問題だとphaさん。

 それが無意味だとか悪いと言いたいわけじゃない。なんでもいいから何かをやって、それで何かやった気になって満足する、ということの繰り返しが人生なんだと思うし、それが楽しくやれていれば問題ないだろう。

思えば、30代と40代は常に複数の締切を抱え、「何かやった気になって満足」して多忙自慢をしていたものです。
消防士とか医師、ゴミ収集のような社会に不可欠な仕事でもなく、原稿書きといっても後世まで残る文学作品でもなく、村上春樹のいう「文化的雪かき」をせっせとやっていただけです。

元同級生で几帳面な人は、金融機関や経理部に務めてミスの許されない仕事を任されていましたが、パソコンが一瞬でこなせる仕事を人力を延々とかけてやっていただけでは。かつて銀行の窓口業務は大変だと聞きましたが、今はコンビニのバイトがこなしています。

 人間が人生で成し遂げられることなんて、頑張っても頑張らなくてもあまり大佐ない。何かをちょっと成し遂げたとしても、どうせ五十年先にはほとんど忘れられている。仕事のために人生があるわけじゃなくて、人生の彩りの一つとして仕事があるだけだ。

単なる観光やリゾート以外にフィンランドとの関わる方法を考えて、日本語教師という仕事を思いつきました。
日本語教師」でネットを検索すれば「低収入」「食えない」という言葉がぞろぞろ出てきます。外国語学習は経済成長のポテンシャルに比例しますから、これからアジアの言語を学ぶなら、日本語より中国語が選ばれるでしょう。

しかし私は、ビジネス用の日本語を教える気はあまりなく、「宮崎アニメや小津映画のあのシーン」「村上春樹のこの文章」を日本好きの外国人と一緒に感動を共有したいのです。ほんの一人か二人の生徒であっても、それができれば、人生の輝かしい彩りとなります。

それに日本語教師が高収入のおいしい仕事だったら、競争も激しくなるのでしょうから、低収入という点も私には好ましいのです。


お店に入って猫がいると「看板猫だ!」と思うのですが、それは人間の勝手な想像。猫は単にカウンターの上にいたいだけでしょう。