翡翠輝子の招福日記

フリーランスで女性誌の原稿書き(主に東洋占術と開運記事)を担当し、リタイア生活へ移行中。2023年8月下旬からスペイン巡礼へ。ウラナイ8で活動しています。日本文芸社より『基礎からわかる易の完全独習』刊行。

マギー先生が教えてくれたこと

マギー先生がご病気であることは、占い雑誌の編集者から聞いていました。
先生とは何本もの記事を一緒に作りましたが、実際にお会いしたのは二度か三度で、後は電話とメールのやりとりで原稿を書き上げていました。

この3月、マギー先生がお亡くなったと聞き、もっと早くこのブログに追悼文を書くべきだったのかもしれませんが、このタイミングになってしまいました。
体のあちこちに腫瘍が広がり、リンパ節にも転移。右目にも腫瘍ができたけれど、ぎりぎりまで原稿執筆やブログ更新を続けておられたそうです。

マギー先生は東西の占術に通じ、仕事がとてもスピーディ。何十冊もの本を出版されています。
最初にお会いした時、「マギー」という名の由来をお聞きしたら「新約聖書でキリストの誕生を祝福した東方の三賢者のことだと教えてくださいました。星の動きから世界を予言する占星術師のルーツです。

占い業界には、鑑定専門の占い師とメディアでの活動中心の占い師がいます。
ライターから占いの勉強を始めた私にとって、原稿執筆や監修を主なお仕事としているマギー先生のスタイルはとても参考になったものです。

私にとってマギー先生が特別な存在だったのは、『開運帖』(当時は恋運暦)を出版しているイースト・プレスを紹介してくださったからです。
15年ほど前、ファミレスに自動占い販売機を導入している会社がありました。料理を待っている間にタッチパネルにあれこれ入力すると鑑定結果が出てくるという仕組みでした。
とある占いの先生と組んでコンテンツを作り、山のような原稿を書きました。うんざりするぐらいの量だったのを覚えています。
ところが、リリースした途端に会社が倒産。原稿料は売上の何%という契約でしたから、お金はまったく入ってきませんでした。
間に入っていた制作会社の担当者も憤慨していましたが、社員ですから上司に怒られることはあってもお給料はちゃんと出るわけで、フリーランスの私とは違います。組織に属さず稼いでいくことの厳しさを味わったものです。

その同じサービスにマギー先生もコンテンツを展開していて、別の仕事でたまたまお会いした時に、倒産話が出たのです。
マギー先生は早めのリリースだったので、労力分は十分にペイしたそうで、私の状況をたいそう同情してくださいました。
そして「イースト・プレスのお仕事、なさってる? 私、次号で大きな特集を書かなくてはいけないから、手伝ってくださるとうれしいのだけど」と仕事を振ってくださったのです。
今にして思えば、仕事の早いマギー先生は別に私の手伝いなんて必要なかったはす。純粋な好意からの申し出でした。

その仕事がきっかけとなり、イースト・プレスから次々と仕事の依頼が来るようになりました。
当時は単なるライターだったのですが、その後、占いを本格的に学び「翡翠輝子」という占い師名を持ってからも、執筆の場を与えてもらっています。

When one door closes, another one opens. but we so often look so long and so regretfully upon the closed door that we do not see the ones which open for us.
ひとつのドアが閉まったら、別のドアが開く。しかし私たちはしばしば長い間、残念そうに閉じたドアにばかり目を向ける。だから別のドアが開いていることに気がつかない。

電話を発明したアレクサンダー・グラハム・ベルの言葉です。
会社の倒産で未払いの原稿料が生じたのは痛かったけれど、イースト・プレスというドアが開いた。
マギー先生のおかげで、実感としてこの言葉が理解できたのです。

こうしたご恩を受けながら、何の恩返しもできませんでした。
ご冥福をお祈りすることしができません。

長く生きていると、こうして誰かの訃報に接することが多くなっていくでしょう。
直接存じ上げている方はもちろん、音楽や本を通して好きだった人も亡くなったと聞くと衝撃を受けます。
せめて、その人から受け取ったものをこうしてブログに書くのが、ささやかな供養になればと思います。
そして、私が死んだ時も、誰かが私の思い出を書いてくれたら、とてもうれしい。もう死んでいるから、そんなことは知る由もないかもしれないけれど、もし魂の存在があるなら、あちらの世界から、ありがたいことだと感謝するはずです。

一昨年、ザ・バンドのリヴォン・ヘルムが亡くなった時に書いたものです。
d.hatena.ne.jp