翡翠輝子の招福日記

フリーランスで女性誌の原稿書き(主に東洋占術と開運記事)を担当し、リタイア生活へ移行中。2023年8月下旬からスペイン巡礼へ。ウラナイ8で活動しています。日本文芸社より『基礎からわかる易の完全独習』刊行。

交差する人生

島根県温泉津(ゆのつ)の湯治から戻りました。

宿泊した「湯るり」はシャワーだけで歩いてすぐの共同温泉を利用します。建物の裏側が源泉という「元湯」は朝から地元の常連さんでにぎわっています。

 

もう一方の「薬師湯」もお湯の力は強いのですが、「観光客向け」という元湯の常連さんもいました。入浴料は「元湯」が500円、「薬師湯」が600円です。

 

番台で料金を払うと、入り方の説明があります。温泉成分が濃いので長湯は厳禁。熱めのお湯に2分ほど浸かったら浴槽から出て体を休めて、再び入ります。「元湯」のほうには初心者向けにぬる湯の浴槽もあります。

いずれの施設でも「詳しいことは常連さんに聞いて」。女性サウナといえば、主(ぬし)と呼ばれる常連の話をよく聞きます。

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温泉津の主(ぬし)は、はるばる遠くから名湯を求めてやって来た客にとてもやさしい。それだけお湯が自慢なんでしょう。入り方のアドバイスから近隣の温泉情報まで教えてくれます。

 

お湯から出たら、私は洗面器に冷水を入れて手ぬぐいを絞り、体を冷やします。サウナの後の水風呂替わり。そうして静かに座っていると「ととのい」ます。気持ちが良すぎてそのままじっとしていると常連さんから「大丈夫? 体が冷えすぎじゃないの?」と声がかかります。あわててお湯に入るとまた気持ちよくて長めに入っていると「がんばって入り過ぎると気分が悪くなることがあるよ」。サウナの砂時計ならぬ常連さんタイマーです。また温泉津に来たら、常連さんたちにまた会えるでしょう。

 

「湯るり」は素泊まりで、温泉津にはご飯を食べる場所はそう多くないので同じ店に通うことになります。東京からIターンした女性が働いていて、話が弾みました。「温泉津が気に入ったのなら、いっそのこと移住すれば?」と言われますが、わざわざ移住しなくても行きたいときに行けばいいのです。友人だけでなく、彼女たちと再会するのも楽しみです。

 

スペイン巡礼中に転倒し、さんざんお世話になったイギリス人のルービンとベリンダ夫妻。

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今年の秋もカミーノを歩くそうで、よかったら日程を合わせて再会しないかという連絡が来ました。私は6月の航空券を買ってしまったので、残念ながら今年は会えません。

"Hopefully our paths will cross again in the future."と返信がありました。「人生という道が交わる」とは、なんて素敵な言葉でしょう。こうした人たちと再会しながら、単発的な旅暮らしを重ねるのが理想です。

 

島根県温泉津(ゆのつ)でカミーノ!

今年は湯治の年にすると決めて、まず来てみたかったのが島根県の温泉津。「ゆのつ」と読むとは難読地名ですが、まさに温泉ありきの街です。

 

最初に訪れたのは2015年でした。

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島根の温泉は車がないと生きにくいところが多いのですが、温泉津温泉はJRの駅から徒歩20分。地元の人には「駅から歩きですか」と感心されましたが、東京に暮らしていると普通に歩きますし、カミーノ(スペイン巡礼)では1日20キロを歩いていたのですから、どうということのない距離です。

 

宿は「湯るり」。古民家を改装したゲストハウスです。温泉旅館だと食事の量が多すぎて

オーナーの近江雅子さんは島根出身で、ご主人が住職で温泉津のお寺を継ぐことになり東京から戻ってきたそうです。

若い人たちによるユニークなお店があちこちにできて、8年前とは温泉津の雰囲気が変わったのは、近江さんの「湯るり」が起爆剤となったからかもしれません。

yururi-yunotsu.jp

公共温泉の薬師湯と元湯温泉がすぐ近くにあり、素泊まりなので温泉旅館の夕食を食べすぎることもありません。今回、4泊するということで「ワ―ケーションですか」と机のある部屋にしてもらいました。もちろんWi-Fi完備です。

近くには同じく近江さんが手がけたドミトリー式の宿WATOWAもあります。そこのシェアキッチンは期間限定で全国各地からシェフがやってきてお店を開きます。

 

和食の料理人さんが来ているというので、到着した初日に行ってみました。

本格的な京料理。地元客のリピーターが多かったのですが、カウンターは私一人だったので料理人さんやお手伝いの女性と言葉を交わすことができました。

料理人さんは栃木県出身で京都で修業されたそうです。地元の魚を使ったお造りや焼魚、あなごの天ぷら。1月なのでお椀は京風の白みそ仕立てでした。デザートのぜんざいは出雲発祥ですからいかにも島根に来たという気持ちになれました。これほどの美味を温泉津で味わえるとは想像もしていませんでした。

さまざまな縁がつながって出張料理人として温泉津を訪れるようになったとのことですが、給仕役の女性も東京出身で島根にIターンしてきたそうです。

3人で話が弾み、まるでスペイン巡礼のようだと感じました。各地から来た人が交流して、もう一生会えないかもしれないけれど、たまたま同じ場を共有することを楽しむ時間。スペインから帰国して東京でルーティンの生活に戻り、こういう体験に飢えていたのでした。

 

「湯るり」の玄関。共同浴場から上がると小雨が降り出していました。近い距離だからそのまま帰ろうとしたのですが、受付の親切な女性が傘をさしていけと勧めてくれました。

 

雨は翌日は雪に。海が近い温泉津はそれほど積もらなかったのですが、会うはずだった友人は積雪で車が出せず、今回の再会は断念。友人に会うのが大きな目的だったのですが、来ようと思えばまた来ればいいし、一人でいたからこそ多くの出会いに恵まれた旅でした。

 

 

怒らない老婆になるために

昨年のスペイン巡礼中も折に触れて読んでいたのが小池龍之介の『もう、怒らない』。

巡礼の日々、できるだけ感覚を研ぎ澄ませて歩きたいと思い「今この瞬間」に集中する方法を参考にしました。

歩いているときに、「今、右足が地面を離れた。今、右足が前へ進んでいる。今、地面に着いた感触があった」といった一挙手一投足に意識のセンサーを強く向ける。

 

バンコクで参加したヴィッパサナー瞑想でもウォーキング・メディテーションを習いました。

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巡礼者の中にはイヤホンを付けて何かを聴きながら歩いている人もいましたが、もったいないことだと感じました。毎日、雑事に煩わされることなくひたすら巡礼路を進むだけの日々は、歩行に集中するまたとない機会なのに。

ただ、歩くことだけに集中しようとしても、凡人にはなかなかむずかしいことです。『もう怒らない』には、意識が逸れるたびに「あ、逸れてしまった」といち早く気づいて、足の感覚へと意識を引き戻すと書かれています。

 それでも初めのうちは、意識はすぐまたどこかへ逃げていってしまうでしょう。それほどまでに、迷いの衝動エネルギーは私たちの心に根深く巣食っています。それでも、逸れる→戻す→逸れる→戻す……という反復横跳びのような地道な作業を繰り返すことで、集中するための基礎的な筋力が身についてきます。

7週間近く歩く日々を続けてきたので「集中するための筋力」もついたはずなのですが、帰国後は歩くことが少なくなりすっかり失われてしまいました。

 

この本を手に取ったのは『もう、怒らない』というタイトルに惹かれたからです。

高齢になって肉体が衰えること以上に私が恐れているのは、やたらと怒る老婆になることです。クレーマー老人が多いのは、高齢になると脳の抑制機能が失われてるからと言われますが、キレる高齢者ほどみっともないものはないと思います。

本格的な瞑想や座禅は敷居が高いのですが、日常の動作に集中することで意識のコントロール力を鍛えていきたいのです。

 

カナリア諸島出身の親切なオスピタレーロ、ナタニエルの巡礼宿を出発して古都サアグンへ向かった日。朝のうちは雨でしたが、昼になるにつれ青空が広がってきました。空の変化と道だけに集中できたすばらしい一日。

 

カミーノで怒りを感じることがなかったのは、温かく迎え入れてくれた地元の人やともに歩く巡礼者のおかげであると同時に、日々瞑想状態にあったからでしょう。

 

そして、日本では温泉にぴったりの瞑想法があります。

パウロ・コエーリョ星の巡礼』に出てきた「水の実習」です。この本では主人公が巡礼路を進むにつれてさまざまな瞑想法が課題として出されます。

平らで水を吸収しない平面に水たまりをつくり、しばらく見つめる。そして、何かをしようと思ったり目的を持ったりしないで、水たまりで遊ぶ。まったく何の意味のない形を作ってみるなど。

これは露天風呂でやるのに最適です。冬の北海道の晴れた日なら最高。露天風呂の表面に映る空の形がさまざまに変化するのを眺めているうちに無我の境地に達します。

 

自動車なら30分で行ける距離を半日かけて歩いたり、露天風呂に延々と入るのはまったく生産性のないことですが、社会に何の貢献もできない高齢者になるのなら、せめて機嫌よくにこにこしている老婆になりたいものです。

 

『もう、怒らない』には瞑想の効用についてこう説明されています。

 自分の中に生じては消え生じては消えてゆくさまざまな感覚を自覚する、すなわち身体感覚にぴったりと意識を寄り添わせることができるようになると、心が頭の中に引き込まれなくなり、無益な思考の回転が止まります。「ありのままの実感」と「頭の中だけの思考」は両立しないので、現実の実感に意識が留まるにつれ、欲や怒りの雑念に意識がさまようことが減少するのです。

 

不要不急の北海道旅

毎年、お正月休暇が終わったタイミングで旅に出ます。旅行代金がぐっと下がるから。

しかもJALの「どこかにマイル」を利用するので交通費も空港往復のみです。

九州か沖縄に行きたかったけれど、雪の露天風呂も悪くないかと思い「帯広・札幌・鹿児島・那覇」の組み合わせを選んだところ、札幌に決定。

 

羽田・札幌便といえば、1月2日のJAL機炎上事故が記憶に新しいところ。「どこかにマイル」は1か月前から申し込めるので、まさかあんなことが起こるなんて想像もしていませんでした。

 

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出発日の羽田は快晴。

 

1月2日の事故でJALの乗客乗員が全員無事に脱出できたのは、客層がよかったからと言われます。最安値のチケットや特典マイルで飛ぼうとする客は繁忙期の便には乗れません。割引なしのチケットを買う経済力があり、律儀にお正月に北海道の実家に帰省し、早めに東京に戻るといった人たちでしょうか。

 

脱出時に乗務員の指示に従って荷物を取り出さず、我先に非常口に殺到することもなかったのですから。なかには避難路を若者に譲る高齢夫婦もいたそうです。

私だったらどうするだろうと考えてしまいました。もう十分やりたいことはやってきたし、社会に貢献するどころかお荷物になっていく年齢ですから、若い人を先に避難させるべきでしょう。頭の中ではそう考えていても、実際にそういう状況になったら、命が惜しくなるのでしょうか。

 

札幌では天然温泉のあるビジネスホテルに泊まり、ひたすら露天風呂に入っていました。冷たい外気にぬるめのお湯だと、時間が溶けていくかのように永遠に入っていられます。

能登の被災地では入浴ができない人がいるというのに、なんと贅沢なことか。

そして、「生まれ育った地を去りたくない」という避難所にとどまる高齢者もいるそうです。急激な人口減少が続く中、国がどこまでインフラを復旧させるのか議論のきっかけになるかもしれません。

 

今年はなるべく自宅で過ごす日数を少なくして、あちこちに滞在しようと思っています。理由の一つは老後の予行演習。いくら住み慣れた自宅にいたくても、自立した生活ができなくなれば、どこかに施設にお世話になるしかないでしょう。そのとき、未練なくさっさと移れるように、自宅以外の場所で寝泊まりする機会を増やしているのです。

我ながらのんきな身分だと思いますが、被災地で役立つような特殊技能もないし、世間の邪魔にならないように不要不急の旅を続けていきます。

左手に告げるなかれ

災害ボランティアが話題になっています。

道路が復旧していないのに個人が被災地に向かうと渋滞を引き起こしますし、貴重な食料や燃料を浪費することにもなるかもしれません。そもそも自治体が「能登に来るのは控えて」と公言しているのに、わざわざ出向いてSNSにアップするなんて自己顕示欲のために行ったと批判されてもしかたがないでしょう。

 

東日本大震災で音楽ボランティアに参加したサックス奏者の書き込みも目にしました。地震発生から半年後でしたが、「こんな時に音楽なんて」と仮設住宅の避難者から非難されたそうです。

善意の押し付けは迷惑。千羽鶴や古着などを送るのも、処理が大変でありがた迷惑になります。支援するなら寄付や義援金

 

「お金はいくらあっても邪魔にならない」と言い放ったのは父方の従妹です。私が父の相続のほとんどを放棄すると聞き「どうしてそんな馬鹿なことを!」の次にこのセリフを口にしました。この従妹は子供のいない伯母の世話をしては遺産を少しでも多くもらおうとしていました。それはご苦労なことですが、結果的に裁判沙汰になり骨肉の争いを展開することとなったのです。お金は邪魔にならないどころか、紛争の種だと思いましたが、災害時はまずお金です。

 

寄付したことを誰にも言わずにひっそりお金を出せば文字通り陰徳ですが、それができるのはかなりの大人物に限られます。

 

聖書のマタイ伝より「左手に告げるなかれ」。

施しをする時、トランペットの華やかな音で触れ回ってはいけない。それは偽善者が人々から賞賛を得るために礼拝堂や通りで施しをするのと同じである。

私はあなた方に告げる。彼らはすでに報いを受けている。あなたが施しをする時に、右手がしていることを左手に告げてはいけない。善行は秘密にしなければならない。そうすればひそかに何が行われているか見ておられる神はあなたに報いるであろう。

凡人はなかなかこういうわけにはいかないし、信仰を持たない者にはむずかしいことです。

 

レオンの大聖堂。これだけのものを建てるには、どれだけの寄進があったのでしょうか。

「金持ちが神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりむずかしい」という言葉も聖書にありますが、これも俗世に生きているとすんなり飲み込めず、悪質なカルト宗教のキャッチフレーズのようにも聞こえてしまいます。

「しない善よりする偽善」というネットスラングがありますが、自分の器に合った範囲で社会に貢献する方法を探るしかありません。