翡翠輝子の招福日記

フリーランスで女性誌の原稿書き(主に東洋占術と開運記事)を担当し、リタイア生活へ移行中。2023年8月下旬からスペイン巡礼へ。ウラナイ8で活動しています。日本文芸社より『基礎からわかる易の完全独習』刊行。

四十九日休酒チャレンジ

酒を飲んでばかりの日々。コロナの自粛期間も飲んでやり過ごしました。もしかしてアルコール依存症なのかと怯えていたのですが、2月半ばからぴたりと飲まなくなりました。

 

きっかけは父の死です。

入所している施設の看護師さんから「意識がはっきりしているうちに顔を見にくるように」と連絡があって神戸に駆けつけたものの半信半疑でした。

とりあえず喪服は40年近く前のものが実家にあり、母の葬儀もそれで済ませました。葬儀用の靴とバッグはあえて持参しませんでした。そんな用意をしたら父が本当に死んでしまうと子供じみた迷信のようなものに取り憑かれたから。一時的に危なくなっても、盛り返してあと数年は生きるだろうと信じたかったのです。結局、夫に頼んで宅急便で送ってもらいました。

 

実際に面会して、やっぱりこれは命の火が消えようとしているのかもしれないと実感が湧きました。

その夜からお酒が飲みたくなくなりました。

私がアルコールを飲むのは退屈な現実を忘れてふらふらと漂いたいから。

父の死という想像もしていなかった展開で、アルコールを飲む必要がなくなりました。酔っ払って意識をと飛ばし、酔いが覚めて父の死を再確認するのも耐えられないし。

 

葬儀をお願いしたお坊さんが「死者の魂は四十九日間、この世にいて、それから浄土に行く」という話をしたので、その間ははシラフで過ごすことに決めました。

 

飲まなければ飲まないで過ごせるものです。去年、伊豆のやすらぎの里で一週間過ごした時も、特に飲みたいと思いませんでした。

 

ただ、午前中の調子の悪さはあいかわらず。飲んでいた時はアルコールのせいだと思い込んでいたのですが、子供の頃から朝が苦手の宵っ張りでした。飲んでも飲まなくても朝はだるくてやる気が出ません。

そして夜の家事がはかどりません。アイロンかけなど面倒なことはアルコールで「面倒くさい」という気持ちを吹き飛ばして取りかかっていたのです。

 

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熊本の「湯らっくす」でもサウナの後はオロポで決めました。オロナミンCポカリスエットで割るサウナ―が愛飲するドリンクです。

 

これがないと生きていけないと思い込んでいたことも、なければないで済ませられるものです。お金や物への執着も同じように消すことができればいいのですが。

自作自演の転がる石

先週、ウラナイ8の玉紀さんと杏子さんのオンライン講座「占いをお仕事に!ソロ活占い師の仕事術」が開催されました。

 

lady-joker.com

医療系の専門職として働き、3人のお子さんを育てている杏子さんは、まさに「スーパー主婦占い師」。私とはまるで接点のない生き方ですが、占いという共通項があるからいつも話は尽きないのです。

 

そして「ソロ活サイボーグ」の玉紀さん、コロナという逆風をものともせず次から次へと新しい企画を立ち上げています。

 

かのボブ・ディランだって高校の講堂でロックンロールを演奏した時は、校長にマイクをオフにして幕を閉められるという屈辱を味わったし、グリニッジビレッジのクラブに出演を果たしてもレコード会社のオーディションには落ち続けました。

それでもディランは「来たバスにとりあえず乗る」タイプでした。グループを組まないと演奏できないロックに見切りをつけ、ギターさえあれば自分が作った曲を自由に歌えるフォークに活路を見出します。まさにソロ活の自作自演ミュージシャン。

 

代表曲の「ライク・ア・ローリング・ストーン」は、「いい気になって転がって来てどんな気分だい?」と罵倒するかのようで、「転がってこそ人生、同じところに留まって苔なんか生やしてどうすんの?」というメッセージが伝わってきます。

 

 

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石とか流れとか、メタファーを多用するのも曲と占いの共通点。 

 

ボブ・ディランほどの才能があれば、そういう生き方も可能だと思っていました。でもウラナイ8に参加したことで、ジャンルと規模は違うものの、それぞれのレベルで実行できる気がしてきました。ディランは時代ごとに演奏スタイルを変え、組むミュージシャンも変えてきました。無名時代から一緒にやってきたバンドは結束は固いものの有名になると人間関係が紛糾して解散するものですが、ディランは「今はこういう曲をやりたいのでこのミュージシャンと組む」というゆるいつながりで何十年もやってきています。70年代に乗り降り自由のバスでコンサートキャラバンに出た『ローリング・サンダー・レビュー』、当時は失敗だったと言われましたがようやく時代がディランに追いついてきました。

  

「とりあえず来たバスに乗る」は去年の夏、ウラナイ8の1周年記念イベントで出たキーワード。 bob0524.hatenablog.com

 

この一年、コロナで活動が制限されましたが、孤立感もなく過ごせたのはウラナイ8というバスに乗っていたから。

ウラナイ8で私は最年長ですが、年寄りが嫌われるのは「昔話、自慢、説教」をしてばかりだから。占いという共通のテーマがあれば、そんな話をしている暇はありません。せっかく同じバスに乗ったのですから、なごやかで楽しい乗車時間を過ごしたいものです。

アメリカの毒親『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』

日本では小学校と中学校に子供を通わせるのは親の義務ですが、アメリカでは開拓時代の伝統からか家庭で教育を行うホームスクーリングが認められています。資格試験を受ければ大学進学も可能です。知識も常識もある親の元で学ぶならそれもいいでしょうが、親が偏った思想の持主だったら?

 

モルモン教サバイバリストの両親のもとで生まれ育った女性が大学で学び、自分が育った家庭環境を否定する『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』。 

 

モルモン教キリスト教の一派で カルトとまでは言えないかもしれませんが、この女性の両親はかなり強烈。終末の日に備えて食料や燃料を備蓄し、学校や病院と無縁で7人の子供を育てます。上の子は出生届を出していましたが、5番目、6番目となると誕生日さえも不明です。だからといって子供を放置しているわけではなく、両親が信じる教えに従って厳格に育てられます。毒親といえば毒親ですが、スケールが大きく堂々としています。

 

学校に行ってもいいけれど、父の許しが必要だと母は言います。しかし父の前では「学校に行きたい」というのはいやしい好奇心のような気がしてとても言い出せません。見かねた祖父母が学校に通わせてくれるというのですが、やはり父のことを考えると決心がつきません。子供にとっては家族が全世界の中心ですから、わざわざ親に逆らう気にはなれなかったのでしょう。進学を決めたのは10代後半になってからです。

 

一家は父親の廃品回収やスクラップ、母親の助産婦、ハーブやエッセンシャルオイルによって生計を立てています。交通事故や仕事の事故で大けがや火傷を負うのに誰も死なず、母親の治療で治ってしまう。この一家、子沢山な上に生命力が半端ない。そして知力にも恵まれているのか、7人のうち3人が大学に進学し博士号を取得しています。

あまりの内容にフィクションじゃないかと疑われたそうですが、まさに事実は小説より奇なり。

 

ヒルビリー・エレジー』も一族のうち誰も大学に行ったことがない貧しい家庭から進学し、社会的成功をつかむ話ですが、まだこの一族のほうが想像できます。 

bob0524.hatenablog.com

 

『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』の著者は、ブリガム・ヤング大学に進学し、教授の推薦を受けケンブリッジに留学し、ハーバードで博士号を取得。世界最高峰の教育を受けたわけですが、そうなると両親とは全く別の世界に生きることになります。

この本を出版したことで両者の対立は決定的となり、あれほど連邦政府による管理を忌み嫌っていた両親が娘の書いたものを事実無根とし弁護士を雇って訴訟を起こしたそうです。

そうした結末を知ると、教育の力は偉大だと手放しで絶賛できません。もし大学に行かなければ、母親のように子供をたくさん産み一族で力を合わせて暮らしていたかもしれません。

 

東洋占術の講座で幸福には「成敗」と「禍福」の二種類があると学びました。「成敗」は社会的な名誉、禍福は個人の満足。たとえば『ロミオとジュリエット』は社会的には悲劇ですが、若い二人だけの世界では愛する人と死を選ぶことはこの上ない幸福だったかもしれません。

 

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ハノイ孔子廟。かつての東洋社会では、高等教育を受けられるのは男性だけでした。女性にも教育を受ける権利が与えられたことは喜ばしいことですが、それによって生じた不幸もあるわけで、どの時代も生きていくのは大変です。

 

 

聖地の抗争と夜明けのマッドマックス

東京の緊急事態宣言は3月第1週に解除されると思い込み、そして、父親が亡くなるなんて想像もしていませんでした。

そんなわけでJALの「どこかにマイル」に申込んでいました。一足早く春を感じようと九州中心の候補地を選んだら、熊本に決定。

 

私が引きこもっていようと旅に出ようと、大勢に影響なし。 というわけでひっそり出かけてきました。

 

熊本と言えば、サウナーにとって西の聖地「湯らっくす」!

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サウナに泊まるのに抵抗もなくなりましたがさすがに連泊はきつそう。初日の到着が午後7時と遅いので、一泊目は水前寺公園前のビジネスホテル、2泊目は湯らっくす、3泊目はドーミーインという日程にしました。

 

湯らっくすの水風呂は圧巻。男性用171cm、女性用153cmの深さですっぽりと阿蘇の天然水につかれます。

そしてサウナ室の一画を仕切ったメディテーションサウナ。テレビの音も入って来ず、フィンランド式のロウリュが楽しめます。

しかし、時間によっては常連さんがおしゃべりに興じています。

2人組が出ていくと、残った一人の女性が私に話しかけてきました。「ここのサウナ、会話禁止なのに気になりません?」

「そうですね、メディテーションサウナなのに、あまり瞑想という雰囲気じゃないですね」と私。

再び2人組が戻ってくると、私に話しかけた女性は「ここは会話禁止です」とおしゃべりを制しました。一見さんの私は抗争に巻き込まれたらどうしようとドキドキしましたが、2人組は素直に謝っていました。

そして、別の時間帯ではその場にいない人の悪口大会が繰り広げられ、おちおちサウナにも入っていられません。

 

エルサレムを巡るイスラエルパレスチナの抗争の火種が尽きないのと同じく、サウナの聖地に平和は訪れないのでしょうか。

やはり泊まりにして正解でした。夜明けの時間帯はサウナも水風呂もほぼ独占状態。昼間は押すのがはばかられた水風呂のマッドマックスボタンも押して、頭から滝のような水をかぶりました。

 

いい水が湧く地にサウナがあれば最高。常連さんの抗争も旅の思い出。全国に点在するサウナの聖地巡礼を考えれば、生きるエネルギーが湧いてきます。

六十四卦の火山旅(かざんりょ)は、物見遊山ではなく旅先の不便や憂いといった意味が込められていますが、東洋占術では同じ場所にとどまって空気がよどんだ状態は凶。旅は日常を見直すきっかけとなります。コロナが収まって、以前のように気軽に旅に出られる状況を心待ちにしています。

 

在野の聖職者

父は介護老人施設で看取ってもらいました。担当のスタッフの方々には本当に頭が下がります。

 

目を真っ赤に泣きはらした若い介護士さん。そんなに涙もろくてはこの仕事は大変なのでは。

そして、看護師さん。

「意識がしっかりしているうちに面会に来られたほうが…」と電話をもらった時は半信半疑でした。12月は元気だったし、緊急事態宣言も出ている中、東京から行っていいものか。

「ご家族に連絡するタイミングはいつも迷います。でも『もっと早く言ってくれたらよかったのに』ということにならないように、こうしてお伝えしているのです」

中には「重要な仕事で多忙なのに呼びつけられた」あるいは「年金のために少しでも長く生かせろ」というクレーマー体質の人もいて気苦労の多いことでしょう。

息を引き取った後は体と顔をきれいに整えて、亡くなるまでの父の様子などを語ってくれました。日本にはチャプレンという職業はありませんが、現場の人たちは聖職者のような働きぶりです。

 

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葬儀は母の時と同じ葬儀社に頼みました。

両親ともあまり宗教的ではなかったので、無宗教でもいいかと思ったのですが、母の葬儀で父は僧侶を呼ぶことを希望しました。田舎の親戚から墓やお寺のことで面倒な連絡があるたびに「イスラムスンニ派に改宗する」と言ってた父ですが、葬儀となると保守的な宗教観に立ち戻るのでしょう。

 

お坊さんは葬儀社に紹介してもらったので、母の時と同じお坊さん。葬儀の打ち合わせで昨年の12月に行うはずだった母の三回忌をしていないことを指摘されました。コロナもあってうやむやにしていたのですが、お寺はちゃんと記録をつけているようです。

父の四十九日と同時に行うことができるというのでお願いしました。お布施は割増しになりますが、お車代、御膳代は1回で済みます。

そして、夫婦連名の位牌にして母の戒名だけ入れていたのですが、そこに父の戒名を入れるためには魂抜きの供養が必要とのこと。面倒ですがそこを否定しては宗教が成り立たないので、お願いしました。親切ないいお坊さんですが、営業マンの道を選んでも大成したのでは。

 

ケアマネさんから聞いた話。

信心深いおばあさんが認知症になり、お坊さんへのお布施を菓子折りでいいと思い込むようになった。お坊さんはしょっちゅう呼ばれるけれど、お布施は一切なし。たまりかねて後見人の行政書士に連絡を取り、お布施を銀行振込にしてもらった。記録が残るし、おばあさんの前でお布施を渡すと「お金を渡すなんて失礼」と言い出しかねないから。

 

お坊さんだって霞を食べて生きているわけではありませんし、お寺の維持もありますから現金収入が必要です。しかし、日頃は仏教徒の接点がなく、身内が死んだ時だけ儀式を頼むから葬式仏教だと感じてしまうのでしょう。

 

施設で高齢者を看取る人々。世俗的な計算では報われない職業ですが、徳を積んだことで報われることがあってほしいと祈りたくなりました。

 

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帯広の公園の一画にある小さな教会。聖職者はいませんが、自然に祈りたくなります。