翡翠輝子の招福日記

本業は女性誌の原稿書き(主に東洋占術と開運記事)。副業で外国人に日本語を教えていましたが、2019年3月で卒業。フィンランドが大好き。

歩き出す前に立つことに集中する ワット・マハタートで瞑想

バンコクにまた行きたくなったのは、外国人向けの瞑想教室を開いているお寺があると知ったから。

 

教室は午後1時からスタートします。チャオプラヤー川のツーリストボートに乗ってワット・マハタートに向かいます。

 

バンコクの観光名所であるお寺はほとんど川沿いにあります。5月の連休に天海玉紀さんが主宰した善福寺川のアースダイバーを思い出します。チャオプラヤー川も善福寺川もくねくねした流れで、川が曲がったところにお寺や神社があります。国は違っていても、人間の思考パターンはそう変わらないのかもしれません。

 

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 瞑想センターに到着。

ヴィッパサナー・ファウンデーションという英文表記があります。ここでは「ものごとをありのままに見る」というヴィッパサナー瞑想を教えてくれます。

  

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参加者は私を含めて5人。イタリア人とドイツ人の青年。私が教えていた日本語学校によくいた、アジアの精神世界に興味のあるヨーロッパの若者でこの教室はリピーターのよう。それから初めて来たというインド人夫妻。インドではめずらしい仏教徒だそうです。

 

師はオレンジ色の衣をまとったタイ人の僧侶です。

それぞれの国籍を確認したあと、師は「仏教の教えを説く講座じゃないから」と、いきなり瞑想が始まりました。座り方は自由で、イタリア人青年は椅子に座ったままでした。瞑想用のマットがあるので、足は痛くなりません。

師はしばらくしたら教室を去ります。どのくらい長く瞑想していればいいのか見当もつきません。旅の疲れもあって、頭がぼーっとして、自分がどこにいるのかわからなくなり、気を取り戻して呼吸に集中します。

 

師が戻って来て、次は歩く瞑想。実演してくれます。

「まず立って。立っていることに集中。右足を持ち上げる、動かす、着地。次は左足。持ち上げる、動かす、着地。部屋の端まで行ったら、方向を変える」

歩いている最中の「lifting, moving, threding リフティング、ムービング、スレッディング」という説明が歌うように繰り返され、まるで詠唱のようでした。

 

実際に歩いてみます。3~4メートルの距離を行ったり来たり。歩くことに夢中になっていると、師から「ミス・ジャパン、歩く前に立つことに集中して」と声がかかります。この教室では、国名で呼ばれるのです。

 

そう、歩き出す前には、まず立たなくては。ちゃんと立っていないのに、歩き出そうしたら道に迷います。

 

歩く瞑想が終わったら、再び、座って瞑想。

最後に参加者で話し合います。

ケネス田中先生の仏教英語講座で「I'm a Buddhist. I belong to the Shingon denomination. (私は仏教徒です。真言宗です)」というフレーズを練習しましたが、こんなに早く使う機会が到来するとは。

 

ミスター・イタリアは、最初の座る瞑想と歩く瞑想はよかったけど、最後の座る瞑想は気が散ってしまったとのこと。

師は「あれはよかった、これは悪かったと比べてはいけない。ただ、瞑想すればいい」

そして、帰国の日が迫っているので少々あせっていて、家に帰って正しい方法で瞑想できるかどうか不安だと言います。

「正しい瞑想も、正しくない瞑想もない。ただ瞑想があるだけだ」

 

私は「昨日、バンコクに着いたばかりで、瞑想していると、ここがバンコクなのか、東京なのか、あるいは世界のどこなのかわからなくなりました」と言いました。

「あなたは、バンコクにもいるし、東京にもいる。世界中どこにでもいる。わかるかね、ミス・サトリ?」と師。

「私の知っている日本語は、刺身、桜、侍、悟り。4つの『さ』がつくことば」とのことで、師は私のことをミス・サトリと呼び始めました。その名前は煩悩だらけの私にふさわしくないと言おうとしたのですが、「それはあなたの判断することじゃない」と言われそうで、言葉を飲み込みました。

 

再び感想を求められたので「日本の仏教はセレモニーのためのもので、こうして瞑想して仏教の本質に触れようとすることはめったにありません」とコメント。

「ミス・サトリ、日本の仏教もタイの仏教もインドの仏教も、どっちがいい、悪いなんてことはない。そしてキリスト教イスラム教もヒンズー教も。日本の寿司やイタリアのパスタ、インドのカレーならおいしい、あるいはまずいかもしれない。でも、カルシウムには、おいしいもまずいもない。ただカルシウムがあるだけだ。仏教もそう考えなさい」

 

出家して修行生活に入ると、「これは損か得か、苦か楽か」と自分で判断することがなくなり、けっこう楽になると聞いたことがあります。

現世に生きる私たちには、そこまで判断を放棄することがむずかしいのですが、本質を見失います。目の前のことをそのまま受け止め、いちいち心を動かさないことを心がけたいものです。

 

すべてが終わって時計を見たら、3時半を回っていました。

帰りの船に揺られながら、いつかタイで仏教を学んでみたいという欲が出てきましたが、師の言う通り、バンコクにいても東京にいても同じことなんだと思い至りました。