翡翠輝子の招福日記

フリーランスで女性誌の原稿書き(主に東洋占術と開運記事)を担当し、リタイア生活へ移行中。2023年8月下旬からスペイン巡礼へ。ウラナイ8で活動しています。日本文芸社より『基礎からわかる易の完全独習』刊行。

レニングラードからサンクトペテルブルクへ

8月の中旬を過ぎると私が教える日本語学校の学生たちは帰国ラッシュとなります。

北ヨーロッパは8月半ばから新学年が始まる学校が多いからです。

 

ピークの時期は2クラスで合計30人以上の学生に教えていました。これが1クラスになると、ぐっと楽になります。

 

今年の夏はロシアからの優秀な学生が目立ちました。

モスクワ大学日本語学科から2人の女学生。

弱冠19歳の彼女たちの日本語のすばらしいことと言ったら。

 

日本語だけでなく日本の文化や歴史も学んでいるという彼女たちの書くトピックは、トルストイドストエフスキー、そして三島、谷崎、芥川といった日本文学にも発展しました。

 

ひたすら彼女たちの作文を読んで精一杯の返答をしつつ、ロシアについての質問を投げかけました。

 

旧ソ連共産主義に話を振っても反応は冷めていました。

彼女たちが生まれたのは共産主義崩壊の後ですからピンと来ないのでしょう。

 

ネタに詰まって、ロシア旅行のおすすめコースも作ってもらいました。

サンクトペテルブルクにはぜひ訪れるべきだそうです。

 

私にとってサンクトペテルブルクレニングラード

フィンランドからほど近いロシアの都市です。

 

1991年のソ連崩壊の影響を受けた国の一つがフィンランドです。ソ連からの侵略に苦しみつつも、フィンランドにとってソ連は最重要の貿易相手国でした。

 

ソ連の崩壊によって深刻な不況に陥ったフィンランドを描いたのが、アキ・カウリスマキの『浮き雲』。

私はこの映画を見てフィンランドにがぜん興味を持ちました。

『浮き雲』に描かれたフィンランドは野暮ったくてまったくあか抜けていません。フィンランドの人となら、物おじせずつきあうことができるかもしれないと思いました。

 

その後、アキ・カウリスマキ小津安二郎の『東京物語』を観て文学の道を捨てて映画に進んだことを知りました。

彼の映画をすべて観ようとして、巡り合ったのがレニングラードカウボーイズソ連アメリカも大嫌いというカウリスマキが、両国を茶化すために作ったコミックバンドです。

 

そして、レニングラードカウボーイズのボーカル、ヨレ・マルヤランタの歌声にノックアウトされました。


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シャイなフィンランド人は外国人とはめったに友人にならないと聞き、強制的に友人にうためにカウチサーフィンを始めました。

カウチサーフィンのサイトを通じて、ホストファミリーを探している日本語学校から連絡を受けて、フィンランド人のヘンリク君のホームステイを受け入れることに。ヘンリク君とは生涯の友人となりました。

 

ヘンリク君を通じて日本語教育に興味を持ち、日本語教師養成講座を受講して資格を取得。

そして、ヘンリク君が学んだ日本語学校で作文のクラスを教えることに。

 

モスクワ大学日本語学科の学生からサンクトペテルブルクという都市名を聞き、一気にレニングラードカウボーイズに記憶が飛びました。

 

この5年間に起こったできごとは、まるでフィンランド・ロシア版わらしべ長者です。

  

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ロシア人学生からは手描きのマトリューシカのイラスト入りメッセージをもらいました。デンマーク人学生からはアンデルセンの写真の絵はがき。

 

そして、漫画とゲームが大好きなオタク・スチューデントのチェコ人からは「先生はどのポケモンが一番好きですか?」という質問が。

「私は猫が好きですから、ニャースが好きです」と返答。

最終日にニャースのイラスト入り作文が提出されました。

 

いつまでも幸せに暮らしました…なんてことはない

すぐれた小説は、読者にさまざまな考える種を与えます。

私にとってはアン・タイラーの小説。洋の東西は変わっても人間は本質的に同じなんじゃないかと考えさせられました。

 

『パッチワーク・プラネット』の主人公はボルチモアの名家に生まれたのに、親の期待を裏切って、高校時代に非行に走り、大学も中退。高齢者相手の便利屋のような仕事をして、30歳の誕生日を迎えます。

 

再読すると、この小説の裏の主人公は母親のような気がしてきました。

アメリカは自由な社会というイメージがありますが、日本以上の格差社会の面もあります。

 

主人公の母親はごく普通の家庭の出身。ボルティモアの名家の男性の結婚はいわゆる玉の輿です。

両親はAで終わる名前が好きだったから娘にマーゴと名付けたのに、セレブの恋人との交際中に、Tがついているほうが高級な響きがあるからと名前のスペルを変えてしまいます。

両親が最初にTが書かれているのを見たのは、結婚式の招待状。「これ、だれ?」と娘に聞くと、「私よ」と娘。両親はどんな思いだったでしょうか。

 

上流階級の家の息子に見初められて、おとぎ話だったら「いつまでも幸せに暮らしました」と終わるところですが、そんなことはありえません。

 

背伸びして玉の輿に乗ったしたツケはすべて次男のバーナビーに巡っていきます。

 

自分が母親似であることを認めながら「母は父の家族に前に出ると、ポーランド系のおどおどした小娘に過ぎない」と辛辣に観察するバーナビー。

そして、母の上昇志向をあざ笑うかのように期待を裏切り続けます。それでいて母からは決して自由になれないと嘆くのです。

 

占いの学校で四柱推命を学んでいた時、個人だけでなく家族全員の命式を見るとタペストリーのようにいくつものストーリーが交錯しているという話を聞きました。

東洋占術は家系を重視するので、祖父母、両親、子供そして配偶者の五行がどういう状態かを推察していくのです。

 

家族であっても、一人ひとり考えていることは違うし、目指すものも違います。

そこからひずみが生じるのもしかたがないことでしょう。

 

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川越の氷川神社の良縁をもたらす鯛のお守り。

家族で悩みたくないのなら、独身を貫けばいいのですが、そういうわけもいきません。この世に完璧な良縁なんてないけれど、ご縁があれば結婚して、そこから物語が生まれます。

再読の楽しみ

 アン・タイラーを読み始めたきっかけは、平安寿子ペンネームの由来だと知ったから。平安寿子がこんなにおもしろいんだから、アン・タイラーはもっとおもしろいだろうと思ったのです。

 

期待以上のおもしろさでした。一度読んでも数年たつとまた読みたくなります。

 今回はこの本を再読。 

  

パッチワーク・プラネット (文春文庫)

パッチワーク・プラネット (文春文庫)

 

  

最初に読んだ時は、主人公の男性の恋のゆくえをはらはらしながら追って、気が付いたら読了していました。

 

主人公のバーナビーはボルチモアの名家に生まれた次男。親の期待に背いて大学を中退し、高齢者相手の便利屋みたいなことをやっています。屋根裏部屋の片づけから、買い物や通院の付き添いまで、日本なら介護保険のサービスでカバーされるような仕事も引き受けています。

 

どうしてそんな仕事を始めたのか。そのいきさつがおもしろい。

 

バーナビーは高校時代にちょっと道を踏み外して、近所の家に忍び込んでは他人の手紙を盗み読んだり、思い出の品をポケットに入れていました。

親が裕福だったので示談に持ち込み、少年院に行く代わりのような高校に入れられます。大学が始まる前に夏のアルバイトをしようとしても、バーナビーの前歴が知られていため、どこも雇ってくれません。父親のコネでホームセンターで働き始めたものの、店長から徹底的にマークされます。

 

ある日、女性客が板を買いに来て、棚に取り付けるために幅6.5センチ、長さ60センチの板が欲しいと言います。

バーナビーは板はそのままで売ることを知らず「切ってあげましょう」と陳列台からのこぎりをつかんでおもむろに切り始めます。

型にはめられることを嫌う彼の性格をよく表しています。

店長は大激怒し、クビを宣言。非行少年を雇わなくてすむ格好の口実だと思ったのでしょう。

 

女性客はただちにバーナビーを雇うことにしました。高齢者向きのサービスを提供する会社の経営者だったのです。

「高齢者や体の弱い人たちが本当に必要としているのは、あなたのような心の優しい人なの」と。

そして、バーナビーの態度に引きつけられたと言います。

起こったことには大しては逆らわないという態度だったわ。大騒ぎしなかったでしょ。まるで『うん、そうか、それが人生というものならそれでいいよ』と言ってるみたい。私はそこに感動したのよ。この子は”ゼン”みたいに達観していると思ったわ。

 

 

バーナビーは結婚相手としては難ありですが、人間的には魅力があります。高齢者の手助けには最適な人物です。

 

そんな彼が仕事を続けて得た所感。

人間、肚を決めれば見苦しくない老後を送れると思っていた。でも今は、見苦しくない老後などというものはないと思う。たとえあったとしても、それはまったく偶然にすぎない。

 

さらっと読み飛ばして記憶にとどまらなかったこんな文章が、ひしひしと身に迫ってきます。

前回読んだ時は、親の介護なんて先のことだと思っていたし、自分の老いを意識することもあまりありませんでした。

 

次に『パッチワーク・プラネット』を読む時はどんな箇所に心を動かされるのでしょうか。それとも、もう本なんて読まなくてなっているのか。

私の母は活字中毒で、「旅行に出ると読まなくちゃいけない新聞が溜まってしまうから大変」と言っていました。

そんな母が「あんなに好きだった本も、読みたいと思わなくなった」と嘆き始めたのは70代半ばごろ。他人事のように聞き流していましたが、私にもそんな時は確実に来ます。そう考えると、限られた時間にできるだけたくさん読まなくてはとあせってしまいます。

 

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ベトナムハロン湾の船着き場。本を読むのは、船に乗って別の世界に行くようなものですが、それには気力と体力が必要なんでしょう。

 

自分の船で漕ぎ出そう

旅に出ると、帰って来てから何度も旅の思い出を反芻します。

西日本豪雨の後の広島への旅は少し躊躇したのですが、結果的にはすばらしい体験となりました。

 

私の祖父はしまなみ海道の伊予大島出身。ルーツを訪ねていくと、村上水軍の末裔だとわかりました。

なんだかかっこいいイメージですが、水軍にもさまざまな役割があります。料理を作ったり甲板を磨いたり。あるいは地上職だったかもしれません。

 

村上水軍は政府に従うことを嫌い、自分たちの暮らしは自分で作る、そうした気概を持って暮らしていました。

 

そうした先祖の血が私にも脈々と流れているような気がします。

私の父は、外国航路の船乗りになりました。キャリアの後半は海運不況に見舞われ、東南アジア系の外国人船員の扱いに苦労したそうです。そして、瀬戸内海航路の水先案内人となり外国船に乗り込んでいました。

 

村上水軍は海賊でもあり、水先案内人でした。

瀬戸内海はおだやかですが、島と島の間には流れが急になるところもあり、難破する船も多かったのです。村上水軍は水先案内をして、その対価を求め、支払いを渋る船から強奪していました。

 

父が瀬戸内海の水先案内人になるのに苦労したのは、海流の暗記。一見、おだやかそうな瀬戸内海ですが、油断しているとたちまち思わぬところに流され、点在する島々も多いため座礁します。

 

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きのえ温泉 清風館の客室からの眺め。手前は露天風呂の屋根です。

 

関東に暮らすようになって、神奈川や千葉、茨城で太平洋を見ると、その荒々しさにびっくりします。私にとっての海は瀬戸内海です。

 

村上水軍の血が私にも流れているのか、人生の舵は人任せにせず、自分でとろうと思ってきました。

 

学校は苦痛の連続。人と同じことを強いられると反発してばかりでした。

進路指導で教育学部を勧められると「学生が行きたくない学部への進学を勧めるような教師には絶対になりたくありません」と口答えする憎たらしい学生でした。

 

そんな私が今は外国人相手とはいえ教師となり、先生と呼ばれる立場に。

 

同窓会でかつての先生に会うたびに、謝りたい気持ちでいっぱいになります。

 

ただし、私の教え方は私だけのもの。

通常のクラスはシラバスがあり、いつ何を教えるかが決められています。

私が担当する作文のクラスは学生次第。学生が書いた日本語に反応して次に何を書くか、質問を投げかけています。

 

ある程度の日本語レベルがないとむずかしいクラスなのですが、時々ひらがなもおぼつかない学生も入ってきます。

 

そんな学生に手取り足取り指導して、周りの学生も手伝ってくれて、多少なりとも日本語で自己表現できるようにします。

 

作文クラスは、日本語という大海に漕ぎ出す船のようなもの。

教室ではコの字型に机を並べ、学生から声がかかれば、教師の私が机の前まで出向きます。カウンター式の酒場で注文を聞いて酒を出しているようでもあり、乗組員たちの水先案内をしているかのようです。

登録していた学生が姿を消すと「私の教え方が悪かったのか」と落ち込みますが、去るのも自由な選択クラスだからこそ、自分のやり方を続けられます。

 

祖父が出た集落の自治会長さんの家を訪ねると、中国や朝鮮半島から運ばれたという品々が飾られていました。村上水軍は海外とも、自由に行き来していたのです。

日本語を教えることは、今後の日本の国力を思うと将来性には乏しいのですが、とりあえず国内、国外で活用できるスキルです。

 

人の船に乗せてもらうのではなく、自らの船で漕ぎ出すことにこだわりたい。

村上水軍の先祖に少しは胸を張れる生き方です。

 

イッチ―・フィートの行きつく先

 広島に行った最大の目的は、きのえ温泉ホテル清風館。海が見える温泉です。

 

私の祖父は、しまなみ海道今治市大島の出身。ルーツを訪ねて行くと村上水軍の末裔だとわかりました。

 
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機会があれば、できるだけ瀬戸内海の海を見たい。

酷暑の東京を離れ、北海道か沖縄に行きたかったのですが、JALの「どこかにマイル」で決まった行先が広島でした。私が行くべきなのは広島だったのでしょう。

 

広島空港から広島市に行くより、竹原のほうが近くて便利です。

そして竹原港からフェリーで大崎上島へ渡ります。

瀬戸内海の眺めと温泉、夕食を堪能し、バーへ。

 

きのえ温泉ホテル清風館には、伝説のバーテンダーがいます。

帝国ホテルで約40年バーテンダーを務めた田村知行さんです。

 

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 田村さんのオリジナルカクテル「みかんの島」。

温暖な気候の瀬戸内海沿岸ではみかんの栽培がさかんです。

 

田村さんは帝国ホテルを退職後、大崎上島へ移住。

元同僚の方が先に移住して、たまたま遊びに行って、瀬戸内海の風景にすっかり魅了されたそうです。その日のうちに空き家バンクに登録したというのですから、この島とは運命的な出会いだったのでしょう。

 

のんびりとリタイアライフを楽しむはずだったのすが、清風館の社長に請われて、1階の一角で再びシェーカーを振ることに。

 

帝国ホテルのバーでは、名だたる世界のセレブ相手にカクテルを作っていたことでしょう。清風館のバーはオープンスペースで扉もないので、湯上りの浴衣客が気軽に立ち寄ります。

華やかな経歴からするとどうなんだろうと思うのですが、田村さんは第二の人生を大いに楽しんでいるそうです。

 

本州と四国には橋が3本もかかり、便利になりました。

でも、島に橋がかかると島独自のものが失われます。

「この島には船でしか来られないところがよかった」と、田村さんは数十年慣れ親しんだ都会とは正反対の生活を選びました。

  

イッチ―・フィートの持ち主は、気ままにあちこち旅をしていないと退屈で息が詰まりそうになります。そして気に入った場所があれば、住んでみるのもいいかも。

その際、持ち運びできるスキルがあれば最高です。

 

はて、私は新しい土地で何ができるのか。田村さんのおかげで人生のたな卸しを考えることができた旅でした。