この3年間、かなりのエネルギーを注いで続けてきた日本語教師の仕事。
母の四十九日法要に向かう新幹線で休職を決めました。
そのとき読んでいたのが、トルストイの民話集『イワンのばか』です。
ロシアのモスクワ大学日本語学科からの留学生は、超優秀です。日本の高校生以上の日本語を書きます。日本語学科以外のモスクワ大学の学生は「入試の点数で日本語学科に進学できず、経営学を学んでいます」とくやしそうに語っていました。
どんな入試で選別されるのか聞いてみると、「クリミア戦争がロシアの歴史に与えた影響」などテーマを与えられる記述式の試験。予備校にも通い、入試に備えたそうです。
そんなロシア人学生の作文のテーマは、谷崎や三島、川端など日本文学が多いのですが、ロシアの文豪のトルストイを選ぶこともあります。
恥ずかしながら『戦争と平和』も『アンナ・カレーニナ』も通読していません。
苦しまぎれに取り上げるのがトルストイの民話集。子供の頃に読んでとてもおもしろかったのですが、大人になって読んでみても味わい深いものがあります。
その中の一編、『人にはどれほどの土地がいるか』。
ロシアの農夫、パホームは勤勉な農夫。
妻も生活に満足しています。妻の姉は商人と結婚して街でおもしろおかしく暮らしていますが、妻は「わたしたちの生活は、派手じゃないけど、そのかわり、心配というものがありません」と姉に言い切ります。
それなのに、パホームは現状に満足できません。次々と土地を手に入れては売り、新天地を求めます。
ある日、遠い田舎で土地が欲しいだけ手に入るという話を聞き、はるばる出かけます。
そこでの土地の売買単位は「一日分」。夜明けから日没までに歩いて戻ってきた範囲が千ルーブリだというのです。
満を持して早朝に出発したパホームは「あそこなら、亜麻がよくできる」とか、欲をかきすぎて日没までに戻れない距離まで歩いてしまいました。
『おれはあんまり欲をかきすぎた、もう万事おしまいだ、日の入りまでには行き着きそうもない』…すると、なお悪いことに、こう思う恐れから、いっそう呼吸が切れてきた。
子供の頃、ここを読んだ時もどきどきしました。時は日本列島改造ブーム。土地さえ手に入れればお金持ちになれると世の中が浮き立っていました。そして、バブル時代も経験しました。
心臓はばくばく、足はふらふら、やっとの思いでゴールに倒れこんだのですが、パホームの口からはだらだらと血が流れていました。彼は死んでしまったのです。パホームの連れてきた下男が墓の穴を掘ります。それは頭から足まで入る土地だけでした。
新幹線の中でこの話を読んで、「パホームは私だ」と思いました。
私は土地やお金ではなく、果てしなく承認を求めていたのです。
時代に恵まれて、フリーランスのライターとして稼いで、それで満足すればいいのに、海外好きが高じて日本語教師の資格を取りました。
カウチサーフィンで外国人旅行者をホストしていたつながりで、外資系の日本語学校からホームステイの学生の受け入れを頼まれました。
最初にホストしたフィンランド人のヘンリク君がすばらしい学生だったので、私もその学校で働きたくなりました。
教壇に立つようになったものの、学生の満足度が低ければシフトに入れなくなるため、強いプレッシャーを感じながら働いていました。
ようやく自分の教え方のスタイルができて、気が付けば非常勤講師では一番の古顔になっていました。
ずっと執筆していた雑誌の休刊が続き、本業のライター業は全盛期の半分以下の仕事量です。その分、副業の日本語教師に力を入れていたのですが、日本語を教えるのが好きというよりも、国際的な場所で働く自分が好きだということに気が付きました。
母、そして世間からの承認が欲しくて続けている仕事。
楽しいことは楽しいけれど、クラスが2クラスになり、20人以上の学生を担当するようになると、一人ひとりに向き合うには準備に膨大な時間がかかります。そこまでがんばっても、すべての学生を満足させることは不可能で、気の合わない学生も出現し、そのたびに胃が痛くなります。
母の死をきっかけに、まるで洗脳が解けたかのような状態に。パホームみたいに倒れ落ちる前に、休んでもいいんじゃないかと思ったです。
自由な時間ができて、何をするかまだ決めていません。とりあえずあちこち旅行してみるつもりです。時間を持て余してどうにもならなくなったら、日本語学校に復職もできますが、今のところはひたすら休むつもりです。
帯広の緑ヶ丘公園グリーンパークには「世界一長かったベンチ」があります。ギネスブックに掲載されましたが、石川県にさらに長いベンチが出現しました。 長さとか高さとか、承認の量を数えても、結局、むなしいことになるのかも。