旧統一教会と関わった政治家は、時間の経過とともに国民は忘れると踏んでいるのかもしれませんが、今のところ報道は続いています。
なぜ世俗の生活を捨て、特殊な集団に入る人がいるのかが知りたくて、篠田節子『失われた岬』を読んでみました。
なかなかたどり着けない北海道の岬でひっそりと生きる人々。カルトといえばカルトですが、勧誘も献金もないので社会問題化していません。連絡を絶たれた家族や友人がやっとの思いで探し出して連れ帰ろうとしても「静かな暮らしを送りたいだけだから、放っておいてくれ」と岬に留まります。
岬の人々は「地上のすべてのものは、自分の体も魂も含め、借り物に過ぎない」と言います。
これは私もよく思います。あの世には何も持って行けないから。だからといって、無欲で暮らすのは無理。俗世で心の安定を得るためには、ある程度の物質と健康が必要です。死ぬまで手厚く面倒を見てくれる施設に入れば安心かというと、それも退屈でしかたがないような気がします。
さらにこんな言葉も。
『近い将来にこれを得るために、今、これを我慢する』という展望が失われるんだよ。だからといって刹那的になるのでもない。
子どもの頃から「いい学校」「結婚」「潤沢な資産」などのために今を我慢するのは当然だと刷り込まれてきたので、なかなかこうはいきません。「今、ここ」に集中できる瞬間が続く環境なら、ずっといたいと思うかもしれません。
そういう境地に達したいために瞑想やヨガをやってみたものの、雑念ばかり湧いてきます。音楽に合わせて体を動かすズンバのほうが没頭できました。そして、私にとって「今、ここ」への集中に最も近いのが「サウナでととのう」。
サウナと水風呂、外気浴を繰り返すうちに脳がバグを起こして一種のさとりのような状態が訪れます。熱いサウナと冷たい水風呂は体にダメージを与えるという声もありますが、健康のためにやっているわけではないのです。
「危ない薬に手を出していた人が、サウナで合法的にキメるようになり、立ち直った」という話まで耳にしました。
いつも必ず「ととのう」というわけでなく、その時の心身の状況やサウナ、水風呂、外気の温度が関係します。ととのいとは遠い状況のことも。たまたますべての状況が完璧で、ととのえた日の記録。
旅先でもサウナと水風呂のある宿を選びます。観光スポットを巡るより、その土地の水や空気をダイレクトに感じるほうが好きです。
チェックインしたら大浴場に直行。体を洗ってサウナと水風呂、外気浴を3セットこなすには2時間近くかかります。夜のサウナのために、夕食は控えめに。いつも飲んだくれているのに、サウナの宿ではアルコールも飲みません。翌日は朝食抜きで3セット。何かの宗教に取りつかれているかのような過ごし方。
秋田のユーランドホテル八橋。サウナと水風呂に南欧のパティオのような外気浴スペースがあります。ワ―ケーションスペースはフィンランドの森。あまりにもすばらしすぎて、街に出るのがおっくうになったほどです。
サウナはすばらしいけれど、あまりにも頻繁にととのいを求めるのもどうかと思うようになりました。月に一度か二度ぐらいがちょうどいいのかもしれません。
サウナ―のバイブル『サ道』の「サウナを信じるな!」を思い出し、サウナだけを信じる一神教からの離脱を試みます。
ととのっただの
ととのわなかっただの…
ある状態を追い求めると
それに振り回されてしまわぬものか?
ある状態を求めれば
苦しみを生むだけではないか?
ある状態は手に入れてもやがて失ってしまう
現れては消える状態を求めるな
信じるな
ととのった特別な状態など
はじめからない!
ととのうなんてものはない!
そんなものを信じるな!
サウナを信じるな!