渋谷区笹塚のバス停で60代のホームレス女性が撲殺された事件。
殺された大林三佐子さんと同世代で、住まいを失う前の彼女が住んでいたのは私が暮らす杉並区。現代の日本でこんなことが起きるなんて信じられません。
ボブ・ディランの『ハッティ・キャロルの寂しい死』。
ディランがロックに転向する前の典型的なマーダーバラッド。ネットがない時代のアメリカでは、人種差別による理不尽な殺人はこうして歌にされて抗議活動を広めました。
1963年のアメリカ、ボルティモアで黒人女性ハッティ・キャロルが殺されました。
ハッティ・キャロルは51歳で高級ホテルのメイド。
「10人の子供を産み、食器を運びゴミを出し、テーブルを片付けて灰皿を空にする…」と甲斐甲斐しく働いていたのに、飲み物を出すのが遅いという理由で24歳の裕福な白人が振り上げた杖で殺されました。
この曲を聴いていた半世紀前、10代の私にとってアメリカはあこがれの国。公民権運動が起こる前はこうした理不尽な事件も起こったけれど、世界は良くなっていくという希望に満ちていました。
But/And you who philosophize dixgarace and criticize all fears
Take the rag away form your face
Now ain't the time for your tears
恥辱を哲学的に語り、すべての不安を批判する者よ、
顔の覆いを取れ
今は嘆く時ではない
サビの部分の「哲学的に語り批判する者」は私に宛てられた歌詞だと思い込んでいました。若い頃の私は学ぶことによって可能性が広がると思い上がっていて、殺される側になるなんて想像もしていませんでした。
しかし、大林三佐子さんの死に関する報道に接すると、単に私は運が良かっただけだと思い至りました。
豊かなはずだった日本もコロナによって貧困が可視化されています。
彼女を追悼するデモで「彼女は私だ」というプラカードが掲げられました。デモには参加しなくても、自分には関係ないという鼻持ちならない金持ちにはなりたくありません。そして、いくらお金があっても老いは食い止められないし、生前か死後は誰かのお世話になるのです。
昨年末、青森の浅虫温泉で宿泊した椿館は宗像志功の定宿。岡本かの子の「女人われこそ観音菩薩」をモチーフにした版画が飾られいました。
これで思い出したのが、今昔物語の「信濃国王藤観音出家語」。
薬湯の出る村の住民が「明日の午後二時頃に観音様がこの温泉に来る」という夢を見ました。そして現れたのが夢で見た通りの武士。村人が観音様だと拝むと武士は驚き「自分は落馬して怪我をしたので湯治に来ただけだ」と困惑したのですが、村人がひたすら拝むので武士は「それなら自分は観音なのだ」と出家して僧になりました。
自分は批判者、加害者、被害者のどの立場にもなるし、菩薩観音にもなる。そうした想像力を持ち続けていきます。