母親の成年後見人の件で走り回っています。
日本語初級の外国人を相手にしていて、日本語能力が退化したのか、裁判所や法務局、金融機関で使われる日本語がよく理解できません。印紙を買うにも窓口を行ったり来たりする始末です。
そして、金融機関での成年後見人手続きもやたらと煩雑で時間がかかります。
そもそも母はどうして複数の金融機関に口座を開いていたのか。銀行と郵便局だけにとどめておけばいいのに、信用金庫だのネット銀行…。
さらに証券会社。
私の母は専業主婦でしたが、株取引にかなりのエネルギーを注いでいました。ネットが普及する数十年前、リアルタイムの株価は短波放送で延々と読み上げられていました。母は家事をしながらラジオをつけっぱなしにして、証券会社に電話して売買注文を出していました。
生意気な子どもだった私は、「私は株なんてやらない。私は額に汗してまっとうに働く」と嫌味なことを言い、事務職に就いたのですが、入社して3日目には「こんな単調なことを毎日8時間もやるわけ?」と絶望し、会社帰りにコピーライター養成講座に通い、広告制作会社に転職しました。
結局、私も額に汗するまっとうな仕事はできず、趣味の延長のような原稿書きを本業にし、マネー取材をきっかけに株に手を染めてしまいました。これが血筋というものなんでしょうか。
成年後見人がこんなにめんどうなら司法書士に丸投げするべきだったのですが、私の一族はお金への執着が強く、どうしても私が引き受けざるをえなくなったのでした。
「どうして私がこんなことを」と恨みつらみが出そうですが、引き受けてしまったものはしかたがありません。
家庭裁判所や法務局、そして金融機関は、私の適性とは正反対の職場であり、「こんな仕事を毎日している人がいるんだ!」と、おどろきの連続です。
向こうからすれば、フリーランスで雑誌の記事を書くというやくざな商売をしている私を「そんな仕事があるなんて」と驚きの目でながめることでしょう。
しかし、時代の波に翻弄される点は同じです。活字媒体の縮小に伴い、雑誌のライターは消えつつある職業であると同じく、金融機関の職も今後は縮小されていくでしょう。副業の日本語教師という仕事も、日本の国力が衰えるとともに日本語学習者が減り先細りは必至です。
手続きに延々と時間がかかるので、銀行員の仕事ぶりがじっくり観察できます。
マニュアルを見たり、関係部署に問い合わせながら書類をチェックし、ハンコを押す手元を見ながら、「お互い、歩んできた人生は正反対だけど、とにかく働いてきたよね」と心の中でつぶやいています。
昔は取材記事が多かったので、さまざまな仕事に触れる機会がありましたが、今は占いや開運記事が多いので、家にひきこもって誰とも会わずに原稿を書くことが多くなりました。
こんな機会でもなければ、人の仕事ぶりを観察できません。
いわば大人の社会科見学のようなものだとおもしろがることにしました。
ハノイでは、路上でさまざまな商売が展開されていました。これこそ額に汗して働くまっとうな商売ですが、ベトナムの経済発展とともにどう変わっていくのでしょうか。