前回のガルシア=マルケス作「この世でいちばん美しい水死人」の続きです。
長身で堂々とした体躯、凛々しい水死体を「エステーバンという名前に違いない」と名前を付け、立派な葬儀を準備する村の女たち。
粗末なバラック、石のごろごろした中庭には草花ひとつ見当たらないという海辺の村です。
女たちの熱狂に怒り狂っていた村の男たちも、水死人の顔を覆っていた布が取られると、はっとしてその顔に見とれました。美貌だけど、そのことに恥じ入っているのがひと目でわかる顔だったのです。つまり、ハンサムだけど謙虚な性格ということです。
そこで、よそ者の葬儀としてはこれ以上ないほどの葬儀となり、よその村からも人が詰めかけてきます。
寄る辺のないまま海に葬るのはかわいそうだからと、父親と母親代わりになる人が選ばれ、それなら自分がきょうだいに、伯父伯母に、従兄弟にと、村中が親戚同士になります。
輝くばかりに美しい水死人を見ているうちに、村人たちは村の通りや中庭があまりにも荒れ果てており、夜毎みる夢も潤いのないものだということに初めて気がついた。
葬儀が終わると、村人たちは、かけがえのない大切なものを失ってしまったような気持ちに襲われます。
思い出のなかに生きるエステーバンが二度と戸框で頭をぶつけたりしないでどこでも好きなところに出入りできるように、家の戸は大きな戸につけかえ、天井を高くし、床はがっしりとした造りにしよう。
(中略)
エステーバンの思い出をいつまでも大切にするために、家の戸には明るい色のペンキを塗り、額に汗して岩を削って井戸を堀り、絶壁に花の種を蒔くことにしよう。花が咲けば、外洋を航行する豪華客船の船客はむせかえるようなジャスミンの香りにおどろいて目を覚ますだろう。
何もない小さな寒村が、豪華客船の船客に「あそこがエステーバンの村なのですよ」と紹介されるような美しい村に変わります。
まさに逆ブロークン・ウィンドウ現象。
一つの窓が割れたまま放置されていると、ほかの窓もすべて壊され、やがてあたり一帯がすさんでくるというのがブルークン・ウィンドウですが、その逆で、一つのきっかけによってすべてが整ってくることもあるのです。
先日、テレビ東京のワールドビジネスサテライトで、マンションの大規模補修を特集していました。
積み立て金不足に悩む管理組合に、足場を組まない工法で補修費用をコストカットする「外装専科」という会社が紹介されました。すべてを安く済ませるわけではなく、お金をかけるべきところはかけるそうです。
補修を施されたマンションの住民が自発的に植栽の手入れをしているシーンが印象的でした。建物がきれいになったら、周りもきれいにしたくなるものなのでしょう。
ガルシア=マルケスのストーリーは荒唐無稽な幻想のようでいて、現実世界とつながっているのです。
フィンランドの街を歩いているうちに「旅人ではなく、短期間でもこの街に暮らしたい」という思いが強くなり、その後の人生が変わりました。