翡翠輝子の招福日記

フリーランスで女性誌の原稿書き(主に東洋占術と開運記事)を担当し、リタイア生活へ移行中。2023年秋、スペイン巡礼(フランス人の道)。ウラナイ8で活動しています。日本文芸社より『基礎からわかる易の完全独習』刊行。おかげさまで重版になりました。

いつの時代も、音楽が人生を豊かにする

NHKEテレで『佐野元春×浦沢直樹 〜僕らの“ボブ・ディラン”を探して〜』を観ました。
佐野元春浦沢直樹は、中学生の頃、ディランの曲と出会い、人生の方向が決まりました。

この二人ほどではなりませんが、私もディラン先生から学び、多くの縁がもたらされました。
シカゴのカウチサーファー、70代のマイケルと楽しい時間を過ごせたのも、ディラン先生の影響があったからです。

ネットのおかげで、20代や30代の若い人との交流ができるようになったのですから、50代の私が70代のマイケルと会うのも自然な流れです。
年齢だけでシャットアウトするような頭の固い人間にはなりたくないものです。10代でも年老いた人はいるし、100歳を超えても若い人はいます。

ディラン先生もこう歌っています。

I was so much older then. I'm younger than that, now
あの頃の僕より、今のほうがずっと若い。

マイケルとボブ・ディランが同い年ということで、実際に会う前のメールのやりとりでも、ディラン先生の話題がよく出ました。

「カセットテープを再生できる? ディランと同世代のフォークソングのテープを持っているから」とマイケル。

いくら私がローテク人間でも、さすがにカセットテープはもう使っていません。
「私はソニーとともに日本で育った人間で、今はMP3ウォークマンでディランの曲をコレクションしているから」と丁寧に辞退しました。

大昔、カセットテープのウォークマンを持っていました。
その後、ディランのCDをMDに録音して、携帯用MDウォークマンで楽しんでいました。
そしてある日、家電販売店の店頭で、MDが姿を消したことを知り、愕然としたものです。

IPodはハイテクを使いこなす人のイメージが強くて、私には無理だろうと思い、MP3ウォークマンを購入。
4GBもあれば十分だと言われたのですが、私のコレクションは収まりきらず、16GBを新たに買い直し、海賊版も含めたボブ・ディランザ・バンドレニングラードカウボーイズ、ヨレ・マルヤランタ、合計500曲あまりを入れました。

昨年の9月フィンランドを旅した時のこと。
カウチサーフィンで泊めてもらった編集者エリカのお宅で夕食後、「何か音楽をかけましょうか?」とご主人のサム。
「ヨレ・マルヤランタがいいわよね」とエリカが気を利かしてくれました。
サムがパソコンを操作すると、たちまちヨレ様の歌声が。
サムは気象予報サービス配信の会社に勤めてハイテクに通じているし、IT大国のフィンランドだから、自国の歌手の歌はオンラインで自在に楽しむことができるんだろうなと思いました。

その後、セイナヨキのアンネの家にて。
「日本的な歌が聴きたいのよね。おすすめは?」とアンネ。
八代亜紀のニューヨーク公演が成功したという話を知っていたので「アキ・ヤシロなんてどう?」と提案。
アンネがパソコンにぱぱっと打ち込むと、
「しみじみ飲めばしみじみと〜」という歌声が流れてきました。

まさかセイナヨキで舟唄を聴くとは思ってもいませんでしたから、「アンネ、それって何なの?」と意気込んで聞いたら、Spotifyというサービスだと教えてくれました。

ヨレ・マルヤランタのCD集めに苦労していた私は、そんなすばらしいサービスがあれば、いつでもヨレ様の歌が聴けると、大喜びしました。
しかし、帰国後、日本にはまだ上陸していないことを知りがっかりするのです。

時代とともに、音楽を楽しむツールは変わっていきます。
でも、音楽に衝撃を受け、人生が変わるという体験はどの時代でも共通のものです。

先日はアンネが取材に行くというので、恵比寿でフィンランドのメタルバンド、VON HERTZEN BROTHERSとAMORPHISのライブを堪能。アンネによれば、フィンランド音楽界の王道はメタルだそうです。

また別の日は、湯島聖堂の講座で、孔子は音楽に造詣が深く、自らも琴を演奏したと聞きました。
孔子は、音楽は人生を豊かにするものと考えていたのです。


カセットテープはすべて処分しましたが、35年以上前に初めて買ったボブ・ディランのLPだけは、ずっと持っています。
初来日を記念した3枚組、日本だけの特別盤。この時点でデビュー後16年。今や芸能活動は50年以上になります。大阪での公演が松下電器体育館というのも、時代を感じさせます。
菅野ヘッケル氏がテーマ別に曲を編集してくれたおかげで、初心者の私がディランの世界に最初の一歩を踏み出せたのです。
浦沢直樹氏のレコード棚にも、このジャケットが飾られていました。