ケネス田中先生の「仏教聖典を初歩英語で学ぶ会」で四聖諦を学び、最も心に残ったこと。
四聖諦の1番目。
We all experience suffering.
私たちは誰もが苦しみを経験する。
そりゃ、生きていると苦しいことがたくさんあります。そういうものだと割り切って期待値を低くして、多くを望まない。
いえいえ、そういうことではないのです。
ケネス田中先生が強調されたのは、苦しみはresponce(反応)であり、condition(状態)ではないということです。
Suffering here refers to person's response to a condition, and not on the conditions themselves that lead to suffering. For example, getting old is simply a condition. The Buddha is not bothered by it all, but many ordinary people fret and worry about it. So they suffer from their aging. Suffering is, thus, their response to a condition.
ここで言う「苦しみ」とは、ある状態に対するその人の反応を指すのであって、苦しみにつながる状態そのものを言うのではないということです。たとえば老いることは単なる状態です。悟りを開いた仏陀はそれに悩まされることなどありませんでした。でも普通の人の多くは、老いることをあれこれ思い悩んだりします。だからこそみんな老いることに苦しみを感じるのです。このように、苦しみとはある状態への反応なのです。
こんな例も挙げられました。
「今、この場所(仏教伝導協会)にいきなりドアを開けて浮浪者のような人が入ってきたら、どうするか?」
A 不審者が侵入したと大騒ぎして、排除しようとする。
B どうしてここに来たのか、理由を聞いてみる。
Aの反応では、貴重な学びの時間が奪われたと立腹し、苦しみを感じます。
Bの反応をすれば、もしかすると、相手も心を開き、仏教を学ぶきっかけになるかもしれません。
同じことが起こっても、反応によってまったく違う結果となるのです。
この講座の数日後、お昼頃のことです。
自宅のキッチンの天井の隅からポツリポツリと水が漏れてきました。
下にあるものをどかして、とりあえず洗面器で水を受け、管理人さんに伝えました。
「水漏れなんて運が悪い」「上階で何かがあったのか?」「このマンションも築14年だから、パイプが老朽化したのかも」など、ネガティブな思いが頭の中をぐるぐるめぐりました。
でも私があれこれ考えたところで、水漏れが止まるわけでもありません。
そのうち管理会社が点検スタッフをよこしてくれて、上の人は留守でしたが、上階の水道を止め、夜になって漏れも止まりました。
翌朝、上の人が謝罪に来てくれました。
ウォシュレットへの給水が故障して、トイレの床がびしょびしょになっていたそうです。
まったくの事故ですから、誰も責めるべきではありません。そもそも、すぐ気がついたので、我が家の被害はゼロです。
それに私は開運のため、風水以上に近所の人との関係をとても大切にしているのです。
下手に怒って上階の人を不快にさせて、「あの憎たらしい人が下に住んでいる」と思われたら、一気に運が下がります。
幸・不幸は自分で決められる。
もちろんいつもそうできるわけではありません。その境地に達するには修行が必要ですし、世の中にはどうしようもない苦しみも存在します。
でも、日常生活で起こるレベルのことなら、心の状態によって乗り越えることができるのです。
フィンランド、セイナヨキ。アアルト設計の教会の礼拝堂はとても清々しい空間です。