翡翠輝子の招福日記

フリーランスで女性誌の原稿書き(主に東洋占術と開運記事)を担当し、リタイア生活へ移行中。2023年8月下旬からスペイン巡礼へ。ウラナイ8で活動しています。日本文芸社より『基礎からわかる易の完全独習』刊行。

ネットの海の「盲亀の浮木」

アップルで12年間働き、独立したカジケンさんと、IT音痴の私が出会ったのは、まるで「盲亀の浮木」のようです。

盲亀の浮木(もうきのふぼく)」とは。
大海の底に目の見えない亀が住んでいて、100年に一度だけ海面に浮かび上がります。
その海には、一本の木が浮かんでいて、真ん中に穴があいています。
盲亀が浮かび上がったときに、浮木の穴へ頭を突っ込むこと。
めったに会えないことのたとえであり、仏の教えにめぐりあうことのむずかしさも象徴します。

誰もがネットを使うようになり、「盲亀の浮木」現象があちこちで起こっているのではないでしょうか。
盲亀がやみくもに海面に浮かび上がっても、そこに木が浮かんでいる確率はほとんどゼロです。
でも、「このタイミングでこの場所に木が浮いている」という正確な情報が事前に得られれば、うまく出会えます。

しかし、ネットによる出会いがすべて好ましいわけではありません。
トーカーや殺人といった犯罪は極端なケースですが、「実際に会ってみて期待はずれだった」「つまらなかった」という体験はよくあるのでは。

カジケンさんにそんな話をすると、「それは、マッチングの問題」とのこと。

ネットでのマッチングというと、結婚情報サービスが真っ先に頭に浮かびますが、もっと広い意味での縁を結ぶのにもネットは役に立ちます。

このあたり、カジケンブログの「『田舎化』する世界。」を読んで考えを整理することができました。
http://kajikenblog.com/?p=3862

私の興味関心がどこにあるのか、何が好きで何が嫌いなのか、普段どんなことを考えているのか、全てを公開しているわけではないとはいえ、私の思考、嗜好、志向を知っている人の数と情報の範囲でいえば、10年前よりも飛躍的に人数、範囲ともに増えているでしょう。そういう意味では、プライバシーは一部融解してきているのかも知れません。

結果として、自分が知らない人にすら、自分のことが知られている場合も出てきます。近所のお店のおばちゃんが私のことを知っていたように。

それってフレーズとしてまとめれば、「田舎化」が進んでいると言っても良いんじゃないかと思います。

しかし昔と大きく違うことは、人間関係が選択できるということ。

どんな人と濃く繋がって、どんな人とは繋がらないようにするのか。

それをかなり意識的に選択できるようになってきたのではないでしょうか。

ここで強く共感したのは、「どんな人とは繋がらないようにするのか」という部分。

ネットの活用というと「繋がれる」面ばかりが強調されていますが、私は「繋がらないようにする」ほうを重視します。

盲亀の浮木」のたとえで言うと、浮木位置情報をキャッチできるようになった亀は、頻繁に海面まで浮かび上がり、浮木と出会えるようになりました。
しかし、穴のサイズに頭が合わず、徒労に終わることがしばしば。あっちの海面、こっちの海面へと動き回りすぎて消耗し、寿命を縮めてしまったような状況。

私が活用しているカウチサーフィンも「マッチング」がポイントです。
「外国人旅行者をホストすること」だけを目的にして、リクエストをすべて受け付けていては、無料宿泊所替わりと考える旅行者もやってくるでしょう。「どんな人とは繋がらないようにするのか」という視点を持たない人には、カウチサーフィンはあまりおすすめできません。
外国人を自宅に泊めたり、海外で泊めてもらってて交流することで、自分にどんな変化を起こしたいのかを具体的にイメージできるなら、カウチサーフィンはとても有意義な体験となります。

カウチサーフィンを活用することにより、フィンランドの出版社や新聞社、広告代理店などのオフィスを訪問、中学校の英語の授業を見学し、湖畔の夏の別荘にも招待されました。
そんな体験に対し、「カウチサーフィンやっている人って、いい人ばかりなんですね」という感想をもらったことがありますが、そうじゃありません。
いい人じゃなさそうな人とは、繋がらないようにしているのです。

というわけで、ネットの進化に大きく遅れている亀のような私ですが、「繋がりの選択」には常に意識的であろうと思います。


フィンランドボスニア湾に面した港町、ヴァーサにて。