翡翠輝子の招福日記

フリーランスで女性誌の原稿書き(主に東洋占術と開運記事)を担当し、リタイア生活へ移行中。2023年8月下旬からスペイン巡礼へ。ウラナイ8で活動しています。日本文芸社より『基礎からわかる易の完全独習』刊行。

磨くべき床は目の前にある

イタリアで4ヶ月間、おいしいものをたらふく食べ、英気を取り戻したエリザベス・ギルバート。

次の4ヶ月はインドで過ごします。『Eat,Pray,Love 食べて、祈って、恋をして』ではインド編が最も読み応えがありました。

エリザベスの当初の予定ではアシュラムで6週間過ごし、少しばかり超越的な体験をしたら、インド中を回る予定でした。寺院にモスク、象やラクダに乗り、ガンジス川、ラジャスタン砂漠、ムンバイの映画館、ヒマラヤ山脈、昔ながらの茶畑、カルカッタの人力車…。ダラマサラまで足を伸ばしてダライ・ラマに会う計画まで立てていました。

しかし、彼女は辺鄙な小さな村のアシュラムで4ヶ月過ごすことにしたのです。

禅の導師たちはいつも言っている。流れる水におのれの姿は映せない、映せるのは動かない水にだけ。そう、急いで立ち去ることは、精神の怠慢だとなにかがわたしに告げていた。一日のすべてが自己の探求とひたむきな修行に費やされる、この浮世から隔絶された小さな場所で、こんなにも多くのことが起こっているというのに、いまさら電車を乗り継ぎ、腸内寄生虫を拾いながら、バックパッカーたちとうろつきまわる必要があるのだろうか。

アシュラムでは毎朝午前3時に起床して、瞑想や詠唱、ヨガの修行に打ち込む以外に、全員に仕事が割り振られます。エリザベスの仕事は寺院の床磨きでした。

一日に数時間、お伽ばなしに出てくる継娘そのままに、ブラシとバケツを用意し、冷たい大理石に膝をついて、せっせと床をこすり洗いする。やっているうちに、この仕事には隠された意味があることに気づいた。寺院を洗い清めることは、わたしの心をきれいにすること、魂を磨くことと同じだ。そして、日常のなんでもない仕事を一生懸命やることが、自身を浄化する精神の修行につながっているにちがいない。

瞑想や詠唱よりも、この床磨きについて書かれた箇所に引き寄せられました。
掃除なら、インドのアシュラムでなく自宅でもやっていることです。
マザー・テレサも、「わざわざインドにボランティアに来なくても、自分の家庭の中で不幸な人を救い、次に隣人を愛せよ」と言ってましたっけ。

インドで修行したアメリカ人といえば、ラム・ダス(リチャード・アルバート)。

ビー・ヒア・ナウ―心の扉をひらく本 (mind books)

ビー・ヒア・ナウ―心の扉をひらく本 (mind books)

折に触れて読み返しすのは、MAKING IT SACREDの章。修行のために山の洞窟に住まなくても、日常生活を聖なる行為に転換するための教えです。

This (chopping wood and carrying water) is Karma Yoga... The Yofa of daily life.
The way to do it is: Do what you do but dedicate the fruits of the work to ME.
That's the most esoteric way of saying it.

Another way of saying it is: Do it without attachment.
Another way of saying it is: Total renunciation!

Now that doesn't mean you go up to a mountain and live in a cave.
It means that you renounce attachment even to your own desires.
It means you do what you do because that's what the harmony of the universe requires.

If I am a potter I make pots.
But WHO is making the pots?
I am not under the illusion that I am making the pots.

Pots are. The potter is.
I am a HOLLOW BAMBOO.

この薪割りと水運びこそカルマ・ヨガ…日常生活のヨガです。
そのやりかたは、何をやろうとも、その仕事の実りをわたしに捧げるというものです。
それがいちばん密教的な言いかた。

もうひとつ別な言いかたをすれば、執着を持たずにやること。
もうひとつ別な言いかたをすれば、全面放棄!

だけどそれは山に入って洞窟に住むという意味ではありません。
それは自分自身の欲さえも捨てるという意味です。
宇宙の調和が要求しているからには、あなたはあなたのやるべきことをやるということなんです。

もし、わたしが陶工だったら、焼き物をつくります。
でも、誰がその焼き物をつくっているのでしょう。
もはやわたしは自分が焼き物をつくっているという幻想をもってはいません。

焼き物はあるし陶工もいる。
でも、わたしは中空の竹なんです。