翡翠輝子の招福日記

フリーランスで女性誌の原稿書き(主に東洋占術と開運記事)を担当し、リタイア生活へ移行中。2023年秋、スペイン巡礼(フランス人の道)。ウラナイ8で活動しています。日本文芸社より『基礎からわかる易の完全独習』刊行。おかげさまで重版になりました。

マッティ・ペロンパーに捧ぐ

「ル・アーブルの靴みがき」以来、再燃したアキ・カウリスマキ熱はなかなか下がりません。

「浮き雲」をもう一度観たくなり、VHSをレンタルしました。本当はDVDが欲しいのですが、日本では、新品は手に入らないのです。
観れば観るほど、味わいが深くなります。

エンドクレジットに「マッティ・ペロンパーに捧ぐ」と出ます。この一行に込められたいきさつを知って、ますますこの映画が好きになりました。

マッティ・ペロンパーは不思議な存在感のある役者です。
レニングラードカウボーイズ ゴー・アメリカ」ではバンドのマネージャーとして、専制君主のようにレニグラのメンバーたちに君臨したかと思えば、続編では預言者モーゼとなり、彼らをメキシコから故郷のツンドラ地方へと導きます。

カウリスマキ作品には欠かせない役者で、「浮き雲」もマッティ・ペロンパーを主人公にする予定だったそうです。
ところが彼は1995年に44歳の若さで急逝。カウリスマキ監督はさぞかし力を落としたことでしょう。前作の「愛しのタチアナ」ではマッティ・ペロンパーとカティ・オウティネンが恋人同士を演じていましたから、「浮き雲」でも息の合った演技をしたはずです。

気を取り直して、カティ・オウティネンの夫役をカリ・バーナネンにして「浮き雲」を制作。次々と不運に見舞われながらも、尊厳を失わずに生きようとする夫婦を描いています。マッティ・ペロンパーがこの世を去っても、この映画を撮りたかったというカウリスマキ監督の思いが込められています。

台詞が少ないのがカウリスマキ作品の特徴の一つですが、カティ・オウティネン演じる妻には頭が下がります。夫がトラム運転手の職をリストラされ、自らが勤めるレストランがチェーン店に乗っ取られて失業しても、不平不満は一切口にしません。
夫は夫で「失業保険なんかに頼りたくない」とプライドを見せます。
公開当時の1997年頃は、遠い北欧の国のお話だったのですが、今の日本では珍しくもない状況になってしまいました。

失業していた夫にようやく仕事が見つかります。夫は上機嫌で、妻に花を買って帰ります。この花束が、アレンジも何もない素っ気ないもので、口数が少なく不器用な夫の愛情を感じさせます。
夫の新しい職は、ロシアへの観光バスの運転手。遠いけれど給料がいい。早速、明日から仕事です。
翌朝、妻は夫の洋服にアイロンをかけ、お弁当を持たせます。

意気揚々と車に乗り込んで出かける夫を、窓から見送る妻。そこで妻は窓のホコリに気づきます。二人とも職を失い、心休まることもなく、掃除どころではなかったのでしょう。窓から棚に目をやると、小さな男の子の写真が飾ってあります。
夫婦の亡くなってしまった子供でしょう。そっと写真に寄り添う妻。

写真はマッティ・ペロンパーの子供時代のものだそうです。
日本映画に強い影響を受けたカウリスマキ監督らしく、このシーン、台詞は何もなく映像だけで構成されています。マッティ・ペロンパーを悼む気持ちが痛いほど伝わってきて、この映画の中で最もせつなく心を打つシーンです。

次々と新しい映画が制作され、ネット上には世界中の情報があふれています。メールやSNSを駆使すれば、世界中の人とも瞬時につながることも可能な世の中です。
そうした時代を楽しむ一方で、本当に大切なものを見失わないようにしたい。カウリスマキ監督の心の中に、常にマッティ・ペロンパーがいるように。


ヘルシンキのトラム。「浮き雲」では、レストラン勤務の妻が仕事を終えて、夫が運転するトラムに乗って帰宅するオープニング近くのシーンが心に残ります。夫の職場で人員を減らさなくてはいけない状況で、誰が辞めるかをカードで決めることになり、クラブの3を引いてしまい、職を失いました。

追記:DVDが新たに発売されました。