映画『ノマドランド』の原作『ノマド 漂流する高齢労働者たち』、映画を観る前に読んでおくべきでした。
この本の元になった『ハーパーズ・マガジン』の記事のタイトル。
The End of Retirement: When You Can't Afford to Stop Working.
(リタイアの消滅――働くのをやめる余裕がなくなった時代)
現代のアメリカに生きることはなんと大変なんでしょう。
中流階級は消滅し、「格差」なんて生やさしいものではなく「深淵」だと書かれています。
法定最低賃金で働く正社員の収入でワンベッドルームのアパートの賃貸料をまかなえる地域は全米でわずか12の郡と大都市圏が一つだけ。
いまのアメリカ人にとって長生きしすぎてお金がなくなることのほうが、死ぬより怖いという現実だ。高齢アメリカ人のほとんどが、リタイア後は「余暇の時間」だと考えているが、その余暇にまったく働かずに過ごせる見込みの人はわずか17%しかいないことが、別の調査で判明している。
勝ち目のない出来レースから降りる手段の一つは、家を手放すこと。家賃やローンの支出をなくし、キャンピングカーやトレーラーハウスに住み、季節労働でガソリン代を稼ぐという生き方です。
深刻なテーマですが、ぐいぐい読めるのは、登場する人物がみんな魅力的だから。
リンダ・メイ(64歳)はシングルマザーとして二人の娘を育て上げ、能力も向上心もあり、対人スキルも抜群。ノマドの集会ではお母さん的役割として多くの人に慕われます。映画には実名で登場し、アカデミー女優のフランシス・マクドーマンドに引けを取らない存在感がありました。
そして、リンダ・メイの親友となったラヴォンヌ(67歳)は元ABCラジオの放送記者としてキャリアを築き管理職に昇進したけれどうまくいかなくて解雇。50代になって仕事を見つけるのがどれほど困難か思い知ります。「賞味期限が切れていたのね」とラヴォンヌ。
元記者がいれば元広告アートディレクターの男性ノマドもいます。
映画『ノマドランド』で元教え子から「先生はホームレスになったの?」と聞かれた主人公のファーンが「いいえ、ホームレスじゃなくてハウスレス」と答えるシーンがありますが、ネタ元はこの男性。広告業だったので言葉にうるさいのです。ハウスは単なる建物だけど、「ホームタウン」「ホームカントリー」というように、ホームは自らのアイデンティティ。家を失っても人間性まで失っていないので、ハウスレスと自称するのです。
元アートディレクターは「広告の仕事はここ数年減っていて、わずかに残った仕事は若い者に行く」と言います。日本の広告、出版業界も同じです。占い学校に行って本格的に学んだこと、翻訳もできるライターという特技を生かして60代になっても仕事を回されているのはなんて幸運なことだろうと改めて思いました。
リンダ・メイは「仕事の選択肢は長年の経験によって広がるのではなく、むしろ年齢によって狭まっていく」と語っていましたが、専門的な仕事をしていた人でも幸運に恵まれないと、高齢ノマドになる可能性があるのです。
占いができるノマドも登場します。リンダ・メイとアマゾンの倉庫の深夜勤務で出会ったシルビアンはタロット占いができます。そして、車中生活に至った数々の不運は、神さまのご意思だったのだと思うようにしています。
映画では、アマゾンの倉庫での仕事を楽しく描いていましたが、これは撮影許可を得るためにはしかたなかったのでしょう。実際はかなり過酷です。
勤務はシフト制で、最低でも十時間は通して働く。その間すっと、コンクリートの固い床の上を歩き回り、屈んだりしゃがんだり背伸びしたり階段を上ったりしながら、商品のバーコードをスキャンし、商品を仕分けし、箱詰めする。一回の勤務で24キロ以上歩く人もいる。
フェイスブックのアマゾンのコミュニティでは、ある女性は3カ月働いたら11キロ以上痩せたと報告。だれかがそれに答えて「毎日欠かさずハーフマラソンの距離を歩いたら、それくらい痩せるのは簡単。しかも疲れすぎて食べる気にもならないし」。
繁忙期だけとはいえ、60代や70代でこの重労働に耐えられる人じゃないとノマドになれません。そして、大型車を長時間運転できる体力も必要です。
そして思い出したのが、日本の刑務所がまるで介護施設になりつつあるという話。高齢者用に食材を細かく切ったり、浴室に手すりをつけるなど対応に追われているそうです。「刑務所のほうが楽だから」「身よりがないから」と刑務所に入りたがる高齢者もいるとか。
博物館網走監獄で見た受刑者の部屋。車中泊してアマゾンの倉庫で働くより快適そうだと感じてしまう私は、高齢ノマドにはとうていなれません。