翡翠輝子の招福日記

本業は女性誌の原稿書き(主に東洋占術と開運記事)。副業で外国人に日本語を教えています。フィンランドが大好き。

自分の船で漕ぎ出そう

旅に出ると、帰って来てから何度も旅の思い出を反芻します。

西日本豪雨の後の広島への旅は少し躊躇したのですが、結果的にはすばらしい体験となりました。

 

私の祖父はしまなみ海道の伊予大島出身。ルーツを訪ねていくと、村上水軍の末裔だとわかりました。

なんだかかっこいいイメージですが、水軍にもさまざまな役割があります。料理を作ったり甲板を磨いたり。あるいは地上職だったかもしれません。

 

村上水軍は政府に従うことを嫌い、自分たちの暮らしは自分で作る、そうした気概を持って暮らしていました。

 

そうした先祖の血が私にも脈々と流れているような気がします。

私の父は、外国航路の船乗りになりました。キャリアの後半は海運不況に見舞われ、東南アジア系の外国人船員の扱いに苦労したそうです。そして、瀬戸内海航路の水先案内人となり外国船に乗り込んでいました。

 

村上水軍は海賊でもあり、水先案内人でした。

瀬戸内海はおだやかですが、島と島の間には流れが急になるところもあり、難破する船も多かったのです。村上水軍は水先案内をして、その対価を求め、支払いを渋る船から強奪していました。

 

父が瀬戸内海の水先案内人になるのに苦労したのは、海流の暗記。一見、おだやかそうな瀬戸内海ですが、油断しているとたちまち思わぬところに流され、点在する島々も多いため座礁します。

 

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きのえ温泉 清風館の客室からの眺め。手前は露天風呂の屋根です。

 

関東に暮らすようになって、神奈川や千葉、茨城で太平洋を見ると、その荒々しさにびっくりします。私にとっての海は瀬戸内海です。

 

村上水軍の血が私にも流れているのか、人生の舵は人任せにせず、自分でとろうと思ってきました。

 

学校は苦痛の連続。人と同じことを強いられると反発してばかりでした。

進路指導で教育学部を勧められると「学生が行きたくない学部への進学を勧めるような教師には絶対になりたくありません」と口答えする憎たらしい学生でした。

 

そんな私が今は外国人相手とはいえ教師となり、先生と呼ばれる立場に。

 

同窓会でかつての先生に会うたびに、謝りたい気持ちでいっぱいになります。

 

ただし、私の教え方は私だけのもの。

通常のクラスはシラバスがあり、いつ何を教えるかが決められています。

私が担当する作文のクラスは学生次第。学生が書いた日本語に反応して次に何を書くか、質問を投げかけています。

 

ある程度の日本語レベルがないとむずかしいクラスなのですが、時々ひらがなもおぼつかない学生も入ってきます。

 

そんな学生に手取り足取り指導して、周りの学生も手伝ってくれて、多少なりとも日本語で自己表現できるようにします。

 

作文クラスは、日本語という大海に漕ぎ出す船のようなもの。

教室ではコの字型に机を並べ、学生から声がかかれば、教師の私が机の前まで出向きます。カウンター式の酒場で注文を聞いて酒を出しているようでもあり、乗組員たちの水先案内をしているかのようです。

登録していた学生が姿を消すと「私の教え方が悪かったのか」と落ち込みますが、去るのも自由な選択クラスだからこそ、自分のやり方を続けられます。

 

祖父が出た集落の自治会長さんの家を訪ねると、中国や朝鮮半島から運ばれたという品々が飾られていました。村上水軍は海外とも、自由に行き来していたのです。

日本語を教えることは、今後の日本の国力を思うと将来性には乏しいのですが、とりあえず国内、国外で活用できるスキルです。

 

人の船に乗せてもらうのではなく、自らの船で漕ぎ出すことにこだわりたい。

村上水軍の先祖に少しは胸を張れる生き方です。