翡翠輝子の招福日記

本業は女性誌の原稿書き(主に東洋占術と開運記事)。副業で外国人に日本語を教えています。フィンランドが大好き。

誰も死について語れない

日常生活では、死について語ることはめったにありませんが、仏教英語講座では、頻繁に取り上げられるテーマです。
ケネス田中先生のお人柄からか、暗く重たいムードではなく、明るく理知的に死が語られます。

たとえばこんな逸話。

The emperor asked Master Guandao, “What happens to a man of awakening after death?”
“How should I know?” replied Guandao.
“Because you are a master,” answered the emperor.
“Yes, your majesty,” said Guandao, “but not a dead one.”
皇帝がカンドウ和尚に質問しました。「悟りを開いた人は、死後、どうなるのでしょうか?」
「知るわけがありません」とカンドウ和尚は答えます。
「そなたは和尚ではないか」と皇帝。
「はい、陛下。でもまだ死んではおりませんのでね」

孔子の「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」(まだ生について十分に理解していないのに、どうして死を理解できるだろうか)を思い出しました。

一方、ギリシャの哲学者、エピクロスの言葉。

もろもろの悪いもののうちでもっとも恐ろしい死は、われわれにとって何ものでもない。なぜなら、われわれが存在する時、死は存在せず、死が存在する時にはわれわれは存在しないからである。
岸見一郎『アドラー心理学実践入門』より

死は一切の終わりなのか、輪廻転生してこの世に戻ってくるのか、実際に体験してみないとわかりません。
臨死体験を語る人はいますが、生き返ったから話せるわけで、死んだわけではありませんから。

いずれにせよ、カンドウ和尚、孔子エピクロスが死について語れないのだから、「死んだらどうしよう」とくよくよしてもしかたがありません。

占い師として実際のお客さんに向き合って鑑定していると、「苦しくて、死んでしまいたい」とおっしゃる方がいました。
力のある占い師なら、苦境から抜け出す方法を即座に伝授できるのでしょうけれど、私はそこまでのレベルに達していなかったので「人間はどうせいつか死ぬのだから、早まって死ななくても、余生だと思って生きてみたらどうでしょうか」みたいなアドバイスをしていました。

「死にたい」とまで思い詰めるのは、理想が高くて純粋だから。
「本当の私はこうじゃない、もっと素敵な人生を生きているはず」と思うから、死にたくなるのでしょう。
ロール・プレイング・ゲームのように、教会で献金して生き返ったり、リセットすればゼロからゲームを始められるのなら、どんなにいいでしょう。
でも、死はすべての終わりかもしれないし、与えられた命を自ら絶ってしまった者には未来永劫の罰が下されると教える宗派もあります。
とりあえず、今のゲームでエンディングまで行ってみてから死ぬのも遅くないはずです。


不老不死の秘薬を求める始皇帝は、徐福を東海の果ての国(日本)へと送り出しました。一説によると徐福がたどり着いたのは富士山だとか。
東京から関西へ向かう飛行機では、天候に恵まれれば右側の席で富士山を見ることができます。