前回、姥捨て山について書いたら、id:kamomeskyさんから「仏教聖典に棄老国の話が収められている」とコメントで教えていただきました。
仏教伝道協会のケネス田中先生の講座では、仏教聖典を英語で読むのですが、講座で取り上げられる場所を広い読みするだけで、通読していませんでした。
早速、「棄老国」を読んでみました。
遠い昔、棄老国と名づける、老人を棄てる国があった。その国の人びとは、だれしも老人になると、遠い野山に棄てられるのがおきてであった。
その国の王に仕える大臣は、いかにおきてとはいえ、年老いた父を棄てることができず、深く大地に穴を掘ってそこに家を作り、そこに隠して孝養を尽くしていた。
このストーリーは「難題」型です。
神が現れて、王に難問を投げつけ、「解けないのなら、国を滅ぼす」と脅します。
神が出した難問と隠れている老父の答えは次のようなもの
Q.二匹の蛇の雄・雌を見分けよ。
A.柔らかい敷物の上に二匹の蛇を置く。騒がしく動くのが雄、動かないのが雌。Q.眠っているものに対しては覚めているといわれ、覚めているものに対しては眠っているといわれるのはだれか。
A.いま道を修行している人。道を知らない、眠っている人に対しては覚めている。すでに道をさとった、覚めている人に対しては眠っている。Q.大きな象の重さはどうして量るか。
A.象を舟に乗せ、船が水中にどれだけ沈んだか印をしておく。象を降ろして、同じ深さになるまで石を載せ、その石の重さを量る。Q.一すくいの水が大海の水より多いというのは、どんなことか。
A.清らかな心で一すくいの水を汲んで、父母や病人に施せば、その功徳は永遠に消えない。大海の水は多いといっても、ついに尽きるときがある。Q.骨と皮ばかりにやせた、飢えた人よりもっと飢えに苦しんでいるものがあるか。
A.心がかたくなで貧しく、仏法僧の三宝を信ぜず、父母や師匠に供養をしないならば、その人の心は飢えきっているだけでなく、その報いとして、後の世には餓鬼道に落ち、長い間飢えに来島なければならない。Q.真四角の栴檀の板のどちらが根の方だったか。
A.水に浮かべてみると、根のがいくらか深く沈む。Q.同じ姿・形の母子の馬をどうして見分けるか。
A.草を与えると、母馬は、必ず子馬の方へ草を押し付け与える。
棄老国の出典は、『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』とあります。
多くのたとえ話を収めたお経で、『日本霊異記』『今昔物語』などに影響を与えていますから、昔話の姥捨て山のルーツとなったのでしょう。
上の難問で姥捨て山に近いのは、蛇の雄雌、象の重さ、栴檀の板でしょうか。
「眠っているのに覚めていて、覚めているのに眠っている」「大海の水より多い一すくいの水」「飢えた人より飢えているもの」「母子の馬」は、修行や慈悲、煩悩など仏教的な教えが色濃く反映されています。
前回、「ググれば大抵のことがわかる時代になって、老人の知恵は尊重されにくい」と書きましたが、ググって得られる知識以上のものを身に付ければ、老いても社会に居場所があるはずです。
仏教の教えだって、文字を読んで情報として得るだけなら簡単です。
しかし、同じ教えでも、知識の受け売りではなく、自分の存在自体が発する智慧では大きな違いがあります。
そのロールモデルがケネス田中先生です。
仏教伝道協会の英語版にアメリカのテレビのために収録した先生の講座の動画がアップされていますから、いつでも見ることができます。テキストも事前にファイルで送られてくるので、それを読んで予習・復習もできます。
だったら、わざわざ田町まで行かなくても、自宅で学べそうなものですが、それは知識を得るだけのこと。
ケネス田中先生の存在自体に触れることで、大きな学びがあるからこそ、通っているのです。
7月に広島・大朝の石橋晃道さんのお寺をアンネと訪れました。このご縁も、仏教伝道協会からもたらされたものです。