翡翠輝子の招福日記

フリーランスで女性誌の原稿書き(主に東洋占術と開運記事)を担当し、リタイア生活へ移行中。2023年8月下旬からスペイン巡礼へ。ウラナイ8で活動しています。日本文芸社より『基礎からわかる易の完全独習』刊行。

転がる石の坐禅

2月の立春から坐禅を始めて3か月目。
http://d.hatena.ne.jp/bob0524/20140216/1392507612

月に一度か二度、約30分を4回、2時間坐ります。
最初はそんなにじっとしていられるか不安だったのですが、やればなんとかなるもの。
区切りの鐘の音が鳴ると、「あ、もう30分が過ぎたか」と思います。

この坐禅の会に誘ってくださった天海玉紀先生は、最初の頃はじっと坐っているのが苦痛で苦痛でたまらなかったそうです。
そう聞いて、私の坐禅は甘いと痛感しました。

呼吸に集中し、ゆっくりと息を吐ききって吸いながら、呼吸の数を1から10まで数えます。
しかし、数を数えながらもあれこれ頭の中にさまざまな雑念が浮かびます。
「雑念に流されている自分」を一歩離れたところから観察し、再び呼吸に集中すればいいのですが、すぐにまた雑念にとらわれます。

昔、一人で旅していると、「夜も一人だと話し相手もいなくて寂しくない?」と聞かれたことがあります。
「本を読むこともあるし、紙とペンがあれば、退屈しない」というのが私の答え。
実は紙とペンさえなくても、あまり退屈しないのです。空想にふけっていると、あっという間に時間がたちます。

この空想力は、坐禅では大きな障害物となります。心を静めて、想像をシャットアウトしなくては。

玉紀先生がブログで坐禅について、こんなふうに書いています。
http://tamayura10.blog123.fc2.com/blog-entry-878.html

坐ると、いい意味で、いろいろなことがどうでもよくなります。まだ起こっていない出来事をあれこれ想像して思い悩むのは無意味。よくわからない人の気持ちをあれこれ妄想するのは無意味。争い?無駄無駄。悪意?知らん。勝手にどうぞ。そういう実りの無いようなことには関わりたくないな。人は人。好きにしたらいい。むちゃくちゃ煩悩だらけのワタクシですが、あんまり悩みはないかもしれない。ありとあらゆる煩悩も、目の前でちらちらと気になるあれこれも、いまこうやってるワタクシ自身でさえ、なにもかも、生じては消えていく泡であり、雪の結晶みたいなものじゃないのかな〜とおもうのです。ある意味、どうでもいい。でも、だからといって、いいかげんにあつかっていい、というわけではない。なにもかも、はかないものだからこそ、一瞬一瞬、ひとつひとつをだいじにしないと、とおもうのです。そして、実に不思議なことではありますが、うん。そうなんだ。どうでもいいよ〜♪とおもって手を離してしまえば、自分には必要ない人や事柄とは縁が切れて、新しいだいじな出会いが巡ってくるのだと、おぼろげながらに感じています。

なんて素敵にラジカルな筆致! 私にはとても書けない文章です。
思わず写経のように書き写したくなります。

玉紀先生とは西洋占星術の話をすることも多いのですが、私が30年以上にわたって教えを受けているボブ・ディランと玉紀先生は星の配置がよく似ているのです。

ディラン先生の「ライク・ア・ローリング・ストーン」は聴くたびに、はっとさせられますが、坐禅で達したいのはこの境地。

When you got nothing, you got nothing to lose
You're invisible now, you got no secrets to conceal.
何も持っていなければ、失うものはない
誰からも見えないのなら、隠す秘密もない

何もかもそぎ落として、物欲はもちろんのこと、人から認められたいという欲も捨てて、素の自分で存在すること。
その境地に達するには長い道のりでしょうが、とにかく坐ってみることにします。


フィンランドの森と湖。風がぴたりと止んで、湖面が鏡のようになりました。まさに「明鏡止水」。