翡翠輝子の招福日記

フリーランスで女性誌の原稿書き(主に東洋占術と開運記事)を担当し、リタイア生活へ移行中。2023年8月下旬からスペイン巡礼へ。ウラナイ8で活動しています。日本文芸社より『基礎からわかる易の完全独習』刊行。

人にはどれほどの承認がいるか

この3年間、かなりのエネルギーを注いで続けてきた日本語教師の仕事。

母の四十九日法要に向かう新幹線で休職を決めました。

 

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そのとき読んでいたのが、トルストイの民話集『イワンのばか』です。

 

トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇 (岩波文庫)

トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇 (岩波文庫)

 

 ロシアのモスクワ大学日本語学科からの留学生は、超優秀です。日本の高校生以上の日本語を書きます。日本語学科以外のモスクワ大学の学生は「入試の点数で日本語学科に進学できず、経営学を学んでいます」とくやしそうに語っていました。

どんな入試で選別されるのか聞いてみると、「クリミア戦争がロシアの歴史に与えた影響」などテーマを与えられる記述式の試験。予備校にも通い、入試に備えたそうです。

 

そんなロシア人学生の作文のテーマは、谷崎や三島、川端など日本文学が多いのですが、ロシアの文豪のトルストイを選ぶこともあります。

恥ずかしながら『戦争と平和』も『アンナ・カレーニナ』も通読していません。

苦しまぎれに取り上げるのがトルストイの民話集。子供の頃に読んでとてもおもしろかったのですが、大人になって読んでみても味わい深いものがあります。

 

その中の一編、『人にはどれほどの土地がいるか』。

ロシアの農夫、パホームは勤勉な農夫。

妻も生活に満足しています。妻の姉は商人と結婚して街でおもしろおかしく暮らしていますが、妻は「わたしたちの生活は、派手じゃないけど、そのかわり、心配というものがありません」と姉に言い切ります。

 

それなのに、パホームは現状に満足できません。次々と土地を手に入れては売り、新天地を求めます。

ある日、遠い田舎で土地が欲しいだけ手に入るという話を聞き、はるばる出かけます。

そこでの土地の売買単位は「一日分」。夜明けから日没までに歩いて戻ってきた範囲が千ルーブリだというのです。

 

満を持して早朝に出発したパホームは「あそこなら、亜麻がよくできる」とか、欲をかきすぎて日没までに戻れない距離まで歩いてしまいました。

 

『おれはあんまり欲をかきすぎた、もう万事おしまいだ、日の入りまでには行き着きそうもない』…すると、なお悪いことに、こう思う恐れから、いっそう呼吸が切れてきた。

 

子供の頃、ここを読んだ時もどきどきしました。時は日本列島改造ブーム。土地さえ手に入れればお金持ちになれると世の中が浮き立っていました。そして、バブル時代も経験しました。

 

心臓はばくばく、足はふらふら、やっとの思いでゴールに倒れこんだのですが、パホームの口からはだらだらと血が流れていました。彼は死んでしまったのです。パホームの連れてきた下男が墓の穴を掘ります。それは頭から足まで入る土地だけでした。

 

新幹線の中でこの話を読んで、「パホームは私だ」と思いました。

私は土地やお金ではなく、果てしなく承認を求めていたのです。

 

時代に恵まれて、フリーランスのライターとして稼いで、それで満足すればいいのに、海外好きが高じて日本語教師の資格を取りました。

 

カウチサーフィンで外国人旅行者をホストしていたつながりで、外資系の日本語学校からホームステイの学生の受け入れを頼まれました。

最初にホストしたフィンランド人のヘンリク君がすばらしい学生だったので、私もその学校で働きたくなりました。

 

教壇に立つようになったものの、学生の満足度が低ければシフトに入れなくなるため、強いプレッシャーを感じながら働いていました。

 

ようやく自分の教え方のスタイルができて、気が付けば非常勤講師では一番の古顔になっていました。

 

ずっと執筆していた雑誌の休刊が続き、本業のライター業は全盛期の半分以下の仕事量です。その分、副業の日本語教師に力を入れていたのですが、日本語を教えるのが好きというよりも、国際的な場所で働く自分が好きだということに気が付きました。

 

母、そして世間からの承認が欲しくて続けている仕事。

楽しいことは楽しいけれど、クラスが2クラスになり、20人以上の学生を担当するようになると、一人ひとりに向き合うには準備に膨大な時間がかかります。そこまでがんばっても、すべての学生を満足させることは不可能で、気の合わない学生も出現し、そのたびに胃が痛くなります。

 

母の死をきっかけに、まるで洗脳が解けたかのような状態に。パホームみたいに倒れ落ちる前に、休んでもいいんじゃないかと思ったです。

 

自由な時間ができて、何をするかまだ決めていません。とりあえずあちこち旅行してみるつもりです。時間を持て余してどうにもならなくなったら、日本語学校に復職もできますが、今のところはひたすら休むつもりです。

 

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帯広の緑ヶ丘公園グリーンパークには「世界一長かったベンチ」があります。ギネスブックに掲載されましたが、石川県にさらに長いベンチが出現しました。 長さとか高さとか、承認の量を数えても、結局、むなしいことになるのかも。

太宰の『トカトントン』が聞こえた

日本語教師として4年目の春を迎えるはずでしたが、休職を決意しました。気持ち的には退職に近いのですが、流動性が高く人の出入りが多い職場なので、慣例に従って休職にしました。「夏には戻りますか?」と聞かれましたが、先のことはまったくわかりません。とにかく休みたい一心です。

 

きっかけは母の死です。

危篤の一報を受けた実家に向かっても、「授業があるのに、どうしよう」「いつ東京に戻れるのだろう」「代講の先生はうまくやってくれているだろうか」とひたすら仕事のことばかり考えていました。

 

葬儀が12月18日で、後片付けや各種手続きもあり、そのままクリスマスと年末年始休暇になりました。学校の授業はあるものの、帰国や旅行で学生数がぐっと減るため、休みやすい時期だったのです。

 

3週間も連続して休んだのは、日本語教師になってから初めてのことです。外資系の学校なので年末年始もお盆も休校にならず、私はひたすら皆勤を続けていました。

 

そして、母の四十九日のために1月下旬、神戸に向けて新幹線に乗りました。

車中で「日本語教師、辞めよう」と決意しました。ひとたび辞めようと思い立ったら、それ以外の選択肢は全然思い浮かばず、周囲に迷惑をかけずに最短で辞められる日を考えるようになりました。

 

日本語教師になった時の目標は「東京オリンピックまで続ける」。

そして、出処進退は自分で決めずに、成り行きに任せるようと思っていました。

それなのに突然、気が変わりました。どんなに気分を振り立たせようとしても、もう無理だとしか思えません。前日の授業では「もっと学生が日本語を書きたくなる質問や例文はあるか」なんて考えていたのに。

 

太宰治の短編『トカトントン』。

熱意を持って取り組んでいたのに、急に熱が冷めてしまう話です。

戦後すぐの話で、語り手は26歳の男性。

戦時中は兵隊になって千葉の兵舎で玉音放送を聞きます。若い中尉が「我々軍人はあくまでも抗戦を続けて最後には自決する」と演説し、主人公も厳粛な気持ちになり死のうと思います。

そこに兵舎から金づちでくぎを打つ「トカトントン」という音が聞こえます。それを聞いたとたんに、一気に白々しい気持ちになり、故郷の青森に帰ります。

 

故郷では郵便局に就職するかたわら、小説を100枚近く書きます。ようやく完成が近くなり、終章をどうしようかと思案しているところに、また「トカトントン」。原稿用紙は鼻紙にします。

 

次に熱中するのが郵便局の仕事。「平凡な日々の業務に精励する事こそ最も高尚な精神生活かも知れない」と、円貨の切り替えの忙しさもあり、死に物狂いで働きます。

 

そこでまた「トカトントン」。

次は恋愛、そして社会運動、スポーツ…。何かに夢中になると必ず「トカトントン」。

 

「この道何十年」と打ち込める人もいるけれど、人の気持ちは変わりやすいもの。トカトントンが聞こえてしまったらしかたがない。太宰の軽快な筆致で一気に読んだ私はそう思ったものです。

 

そしてついに私も「トカトントン」を聞いてしまったのです。

 

外国人好きの私には最高の職場でした。

作文(ライティング)のクラスの担当は私一人。授業のシステムも自分だけで決めて、好き勝手にやっていました。

毎週のように新しい学生が入って来て、刺激的で楽しい教室。1年で100人ほどの学生に出会い、3年で300人。気の合った学生とはメール交換も続けています。

 

その一方で、授業準備はかなり負担でした。ライティングのクラスですから、全員一斉同じことはできず、一人ひとりに対応していたからです。自分だけしか担当していないので、代講も気軽に頼むことができず長期旅行にも行けませんでした。

 

そして母の死をきっかけに気づいたこと。

私は母に認められたくて、日本語教師になったようなものだ。

 

専業主婦だった母は、家の中に閉じ込められて舅・姑と子供だけを相手にする生活がほとほと嫌だったんだと思います。しかし他に選択肢はありませんでした。娘の私には、家の手伝いをするより、勉強していい学校に行って社会で活躍することを期待していました。

私が雑誌のライターになってフリーランスで食べていけるようになったことを喜んでいましたが、外国人相手の日本語教師も母にとって評価の高い仕事でしょう。

 

60近くになっても母がどうこうというのは恥ずかしいことですが、案外、そういう人は多いのかもしれません。

 

ともかく、母の四十九日に向かう新幹線の中で私は「もうがんばらなくてもいい」と悟りました。

次に何をやるかは決めていません。今はひたすら休みたいだけ。

欲の深い私は、何もしていない自分に満足できなくなるでしょうが、そうなったらそうなったときのことです。

 

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スカーレット・オハラを追体験する

1月に放送された100分de名著の『風と共に去りぬ』。

若い頃に夢中になって読み、20代でアイルランドにハマってからは、別の視点で読み返しました。

「オハラ」というファミリネームはまさにアイリッシュ。オサリバン、オライリーなど、「オ」は「何々の息子」という意味です。

そして「タラ」。アイルランドの土着宗教であるドルイド教の聖地です。

スカーレットの父のジェラルド・オハラが土地の所有にこだわり、そこをタラ農園と名付けたのはアイルランドの血のなせるわざです。そしてスカーレットもその血を受け継いでいます。

 

スカーレットのような華やかで激しい人生とは無縁ですが、一つだけスカーレットの経験と重なりました。

母の危篤の報を受けてアトランタからタラ農園へと駆けつけるスカーレット。

時すでに遅く、母はすでに亡くなっていました。そして、頼りになる父だったジェラルド・オハラは廃人となっていました。

 

私の父と母は当時にしてはめずらしく恋愛結婚でした。

母の弟と父が同級生。高校時代に母の実家に遊びに来た父が母に熱烈に恋をしたそうです。

しかし、父は五人きょうだいの唯一の男の子。四人姉妹の期待を一身に背負って東京商船大学に進学しました。

自慢の弟にどんなにすばらしい嫁が来るかと期待していた姉は、自分と同い年の年増の嫁をさんざんいびったそうです。頼りになるはずの夫は外国航路に出ていて、帰国するのは数か月に一度。

 

私が父方の親戚とあまり付き合いたくないのはこのためです。

母はなんて不幸な結婚をしたのだろう、そして、そのゆがみが兄と私に受け継がれています。

 

母をそんなにつらい目に遭わせた父ですが、本気で母のことは好きだったんでしょう。

母がパーキンソン病を患ってからは限界まで自宅で老々介護をしていました。

 

そして母が施設に入所し、父は一人暮らし。

自費でヘルパーさんをお願いして、なんとか一人暮らしを続けていましたが、母の死の1か月前に肺炎で入院を余儀なくされました。

 

母の通夜と葬儀、父は病院から車椅子で参列しまいた。ささやかな家族葬でしたが、最大限に父の意向を受け入れたつもりです。

 

そして四十九日の法要で帰省して父に会うと、開口一番、

「お母さんが死んでしまって、自分はもう廃人になってしまった」。

 

不謹慎ながら、スカーレット・オハラがタラ屋敷に帰った時と同じだと思いました。

そして、本当の廃人は自分のことを廃人とは言わないものだと突っ込みも。

 

とはいえ、遺された父の介護をどうするか、そして行く行くは父の葬儀を出さなくてはないし、私自身の終活もあります。

 

スカーレット・オハラは「Tomorrow is another day. 明日は別の日」と言い切りましたが、今日の延長に明日があります。片付けられることは少しずつ片付けて、よりよい明日を迎えたいものです。

 

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これぞ葬式仏教

昨年の12月の母の葬儀は、葬儀会社に言われるまま、深く考えずに進めましたが、お寺に関してはちょっと思うところがありました。

 

実家の両親は宗教にあまり関心がないタイプ。

家族の中で一番、宗教的なのはおそらく私です。キリスト教系の学校を卒業していますし、数年前は田町の仏教伝道会館で開催される「英語で学ぶ仏教」講座にも通っていました。

 

田舎にあった墓を両親が住む神戸に移したのは、親戚がうるさかったから。昔からの墓で、周囲はどんどん無縁墓になっていたのです。墓じまいは親戚がやってくれましたが、ずいぶん面倒だったのでしょう。かなり恩着せがましい態度を取られました。

 

神戸では新たにお寺の檀家になることもなく、墓石屋さんに紹介してもらったお寺に一回限りの納骨供養をお願いしました。そもそも、神戸市のお墓の募集を教えてくれたのも墓石屋さんでした。

 

宗教がらみのごたごたにうんざりした父は「仏教はもうやめた、イスラムスンニ派に入信する」とうそぶいていたぐらいなので、もしかしたら母の葬儀は無宗教でやるんじゃないかと思いました。『戒名はいらない』とも言わているし、いざとなればもっともらしい戒名を私が作ってもいいか。

 

しかし、父はお寺に頼みたいとのこと。さすがに配偶者の葬式となると、お寺抜きは考えられないのでしょう。

 

神戸には親戚もいませんから、頼れるのは葬儀社だけ。真言宗のお寺の紹介を頼んだところ、「こちらでのお寺の付き合いはまったくないか」と念を押されました。

勝手に新しいお寺に頼むと、離檀料のトラブルが発生し、葬儀社は巻き込まれるのを恐れているようでした。

 

一瞬、アマゾンのお坊さん便も頭に浮かびましたが、なんとか真言宗のお寺を紹介してもらいました。お布施の金額も葬儀社に聞きました。「お気持ちで」と言われても、ここちらはまったく何もわからないのだから相場を聞くしかありません。

結局、お通夜から葬儀、初七日、戒名、お車代、お膳代など合計で40万円ほど包みました。

 

葬儀社とパイプがあるお寺はたくさんの僧侶がいてフットワークが軽いのか、お通夜、葬儀、その日のうちの初七日と、お坊さんがすべて別人でした。

そして、お坊さんと言うより、敏腕セールスマンのように「四十九日までの七日ごとの法要」を勧めてきます。私が東京に戻るのでとても無理です。

 

 

お金のことばかり気にして、真言宗のお経は何を言っているのかわからないし、結局、お金だけ払って形式だけを整えたことになりました。

 

宗教に興味があると思っていたのに、母の死と仏教の関りについては、悔いが残ります。せめて真言宗の総本山である高野山に行って、自分なりの供養をしたいし、仏教伝道協会の英語で学ぶ仏教講座にもまた通い始めたいと思っています。

 

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熱心な仏教国のタイでは、男性はほとんど出家するそうです。 次にバンコクに行ったら、仏教体験もしたいものです。

人生の後始末を考える

母が亡くなったのは昨年の12月16日の日曜日、早朝でした。

1週間前の月曜日に施設から「栄養物を受け付けなくなったので、水の点滴に切り替えた」と連絡がありました。

危篤状態になっても病院に搬送せず、施設での自然な看取りをお願いし、署名と捺印も済ませておいたので、そのままお任せするだけでした。

 

水だけの補給で、いつ命が尽きるのか、それは人によって違ってくるとのこと。

本来なら月曜の時点で東京から神戸に駆けつけるべきなのでしょうが、月曜から水曜まで日本語学校で授業があります。

急な代講は頼みにくいし、仕事中毒ぎみの私はなかなか考えが切り替えられません。いざとなれば新幹線で3時間ほどの距離ですし。結局、水曜の授業まで済ませて、午後の新幹線に飛び乗りました。スマホで新幹線の指定席の購入ができて何度も変更できるEX予約は本当に助かりました。

 

木曜、金曜、土曜と、死を待つだけの日々。

施設の人からは「テレビドラマのようにご臨終に家族が立ち会うことのほうがめずらしい」と言われ、夜は実家に帰って寝ましたし、葬儀の準備にも取りかかりました。

母が数十年前に平安祭典の会員になっていたので、会員証を探し出し、ネットで検索すると「事前相談」ができるとあったので、金曜日に電話してみました。

その日のうちに相談できるというので、急いで出かけて大体の流れがわかりました。

葬儀会社とのトラブルでよく聞くのは、よくわからないままに病院と提携している葬儀会社が遺体を引き取りに来て、そのまま葬儀を執り行い高額のプランになってしまったというケースです。

母の入所していた施設では、葬儀会社をあらかじめ決めておくように勧められ、特に提携しているところもないようでした。

 

金曜日に大筋が決まり、土曜日も同じ状態が続き、内心「長引くようなら月曜日にいったん東京に帰ろうか」と仕事人間に戻りそうになりましたが、日曜の早朝5時に施設から、息を引き取ったと連絡がありました。

 

実家から施設まで、徒歩25分ほどの道のりを歩いているうちに、日が昇り夜が明けていったのを覚えています。

その後はベルトコンベアに乗ったかのように葬儀会社の仕切りに任せました。

 

喪主は父ですが、肺炎で入院中なので、すべての選択をするのは私です。

直系家族と仲の良かった近所の人だけの小規模な家族葬にしました。親戚は昨年の夏まで子供のいない伯母の遺産を巡って骨肉の争いを繰り広げていたので、誰も呼ばないことにしました。裁判までもつれ込んだ対立していた人たちが和やかに葬儀に参加するとは思えないし、どちらか一方だけを呼ぶのもトラブルの元になりますし。

 

それにしても、祭壇の大きさから、棺桶、装束、写真、花など、なんと選ばなくてはいけないことが多いのでしょうか。いちいち考えるのも面倒で途中から「中の中でお願いします」で済ませてしまいました。父が払うので自分の財布は痛まないと思ってさくさくと決められたわけで、自分が払うのだったら迷ったかもしれません。

 

家族葬だからといって、安くなるのは通夜でふるまう料理の数だけで、一般の葬儀と費用はあまり変わらないということで、費用は80万円ほど。これにお寺へのお布施が加わります。

 

葬儀で忙しいのは、遺族の悲しみを和らげる効果があると言われますが、たしかに亡くなって三日間ほどは考える暇もなく淡々と時間が流れていくような感覚でした。

 

その後も年金や金融機関の手続き、遺産分割とやるべきことが山積です。

 

母の死を通して、自分の死もリアルに考えるようになりました。子供のいない私が死んだら、だれも手続きをしてくれません。任意後見と死後事務委託について調べてみるつもりです。

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